「賽(さい=サイコロ)は投げられた」
(古典ラテン語:ālea iacta est、jactaとも、アーレア・ヤクタ・エスト)とは、ガイウス・ユリウス・カエサルが紀元前49年1月10日、元老院のグナエウス・ポンペイウスに背き軍を率いて南下し北イタリアのルビコン川を通過する際に言ったとして知られる言葉。当時のカエサルはガリア総督だった。出典はスエトニウスの文章 (iacta alea est) である。現在は、「もう回帰不能点を越してしまったので、最後までやるしかない」という意味で使われている。
共和政ローマは当時、本土と属州ガリア・キサルピナをルビコン川で分けており、それ故にルビコン川は北の防衛線であったため、軍団を率いてルビコン川以南へ向かうことは法により禁じられていた。これに背くことはローマに対する反逆とみなされた。
今考えると この言葉は面白い。
スマホニュースで必ずといってよい程掲載されている「老後2000万では生きられないのか…云々」
人生を計画として捉えているわけだ。大人はかくの如し。
今この歳で人生ゲームをやっても面白くない
「大逆転人生ゲーム」と言われても 人生の80%は生きただろう自分にとって どんなマスに止まってもリアリティがないからだし、大金持ちになってもニセモノの札だからかもしれない
だから充実した老後を過ごすためには「人生ゲーム」ではなく「予測と計算と戦略」に重きを置き、日々考えてしまうわけだ…
「人生」 これは本当に「予測と計算と戦略」だろうか…私はそう思わない
半分くらい「人生ゲーム」をやっているのじゃないかと思う
賽だろうがルーレットだろうがどっちでもいいが、ヒトはそれを投げる・回す瞬間がありゃしないだろうか。
毎日 賽を振ってその目に則して生きるのはタイヘンだし いきなり双子が生まれ、それを車に刺して走るのもどうかと思うが、大病を患ったり、交通事故に遭ったりは現実としてある。この間も他車に衝突されて軽自動車が炎上し、4名全員が亡くなる痛ましく悲惨な事故があった。こんなことは 計算にも予測にも、生きる戦略にもなかっただろう。
「賽を振る人生か。賽を振らない人生か」 いいや 「ヒトは賽を振る」
株に手を出したりするのは賽を振るような人生かもだし、存外にリアルの世界でもヒトは人生ゲームをやっている。
それよりも もし1がでたらステージⅣのガンが治り、6が出たら流れ弾に当たって30歳に満たず死ぬ…なんてこともあるかも知れない。
この間のニュースで「朝まで生テレビ」の司会者田原総一朗がパネラーに向かって「日本の将来に希望が持てるか?」について〇✕で尋ねた。(このやり方もどうかと思うが)一人の若い芸能人が✕を挙げたところ、田原は「そんな下向きでどうする?日本から出ていけ!」と怒鳴ったらしく、後に謝罪する羽目になった。
私なら田原氏に言うだろう。「実は日本も世界も賽を振ってるんじゃないのか?であれば暗澹とした未来も、明るい未来もどっちだってあり得る」
「世界を動かす」とヒトは言う
「人生を有意義に生きる」と希望を言う
でもさ。「人生ゲーム」から完全に隔たれているのが人生じゃないし
「賽を振る」瞬間は誰にだって いつか訪れるのじゃないかと思う。
整理していて 行方不明になった絵が何枚かあります。
旅に出たんじゃないかと…考えています。
kei