kei 「蜘蛛の糸Ⅱ」

2023年3月退職 後の生と死を「絵と言葉」で考えたい…4月からは「画家」か?「肩書を持たないただの人間」として生活していこうと考えています。

「有名 無名」

オリンピックというスポーツの祭典があり パラリンピックというのもある。

パラリンピックは障害を有している方々の世界的なスポーツの祭典

だからなのか「障害者美術展」という展覧会もあったりする

私は見に行かない

Queenのヴォーカルにして 「ボヘミアンラプソディー」を生み出した フレディ・マーキュリーはゲイだった エイズという病によって生涯を閉じた いわゆるLGBT(「レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー」⇒「性的マイノリティ」)と呼称される人々にも当てはまることかもしれない 日本という国の「世論」では「LGBTに寛容であるべき とか 性的に自由であっていい」というのが現在?

フレディ・マーキュリーがゲイであったことも LGBTに関しても私は全く気にならないので「是非」の判断すらしていない

そういえば「美術の先生の美術展」というのがあり 友人に勧められて行ってみたが 生煮えの料理のような作品が散見され 率直に言えば 「見てほしいから会を催すのではなく 展覧会に間に合わせるために慌てて描いた」のがわかり 友人には「つまらなかった」と正直に感想を伝えたら 疎遠になってしまった

 

何故「障害者」とか「美術の先生」などという名前を美術の展覧会の冒頭に持ってくるのか私には理解ができない 絵は絵。 ただそれだけだと思う

だから全て作者も作者の立場も関係なく「無名」であるのが当たり前だと思っている

死刑囚と呼ばれる人々の絵も観たことがある 相模原殺傷事件 19名の人々を殺した「植松聖」の絵

この人は 今では死刑囚として有名かも知れないし 精神・心理分析として彼の絵は役立つだろうが 「良さ」は関係ない

私の感想は「さして良くない。宗教的とは言えない 形式的で 心の弱さを感じる絵」

 

世間は「レッテル」にこだわる または 「名前」にヨワい

 

日本に「モナリザ」が来たとき「多くの参観者だった」のは容易に納得できる

今を時めく「バンクシー」の絵を ウクライナからコンクリート壁ごと引っ剥がし日本で展示しても”大盛況”必至である

モナリザという作品を バンクシーの作品をつぶさに観察したか?と問えば どうなんだろう… 混雑し過ぎてよく見れなかった という答えが返ってくるかもしれない

レオナルドダヴィンチがスゴイのではない 作品がスゴイのだ

バンクシーウクライナでの壁画でも「逆立ちする女子体操選手」はとりわけ美しい 別に作者などどうでもいいと思う

ゴッホの絵は生前1枚しか売れなかった それも半分お情けで買ってもらった 実の弟であり兄の死後後を追うように亡くなった 画商テオがパトロンとなり画材を提供したが それでもパンもロクに買えず その中で絵具を買い コーヒーをがぶ飲みして描き続け貧しいまま死んだ つまり当時は「無名の作家」だった それが現在良作では100億円という金額で取引されている 現代では有名となったゴッホの油絵は「億」を下ることは無いだろう

「ゴミ」と判断され 捨てられる可能性が十分にあった千点以上の彼の絵を保管しつづけたのはテオの妻だった

 

「開運 何でも鑑定団」? 下らぬ番組だと思う 既成の価値で値段をつける番組

無名のゴッホの絵にいくらの値段をつけるというのだ? 5000円か?

そういう番組だ 作品そのものの良さなどどうでもいい 名前に値をつけている

 

絵に 音楽に有名・無名もない 障害者も絵の先生も関係ない

私は「ボヘミアンラプソディー」が大好きだ 詩も音も私の胸を打つ

「I decide who I am」 フレディ・マーキュリーのこの言葉が全て。

 


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