kei 「蜘蛛の糸Ⅱ」

2023年3月退職 後の生と死を「絵と言葉」で考えたい…4月からは「画家」か?「肩書を持たないただの人間」として生活していこうと考えています。

「こむら返り」

近頃 朝起きると”こむら返り”(私の場合ふくらはぎが吊る)を起こすのが日常化していて その理由やらを調べていました

そういえば 以前もそういう時期があった記憶があります 上図の他にも「運動不足」も理由の一つなので アレもコレも当てはまるようです

すまないことですが そんなこともあり今日は仕事やすみました

歳をとるとはこういうことなのでしょうから…慌てたところで仕方ありません

マスクを着けるようになった頃から ヒトの名前を覚えるのがとんでもなく苦手になり

名前の呼び間違いは日常で もう認知症の領域に入っているのかも知れません

ただ「眼人間」としては 顔でヒトを覚えていたので それができなくなるというのは もう やっぱり”退職しろよ”と誰かに背中を押されている気がします

 

健康も運動も大切ですが 年齢に関係なく延々と続くものがある

ありきたりですが それは「学び」というヤツで 行為や体験も交えながら続けていかなければならないし それをしたいと思っています

大学院に入って「美学」を学びたい気もしていますが その前に生活基盤を何とか というのもあるので勝手は出来ません けれど当人がその気になれば ネットからでも文献からでも つまり自己流でも学ぶことは可能

 

楽家武満徹」建築家「安藤忠雄」世界に名を知られた2人は「独学」

それが”個性”として開花することもあるでしょう

だからでしょうか「引きこもり」というネーミングはそろそろやめたら?と思います

その人の生活の状態を見て まるで心の中を見透かすような いわゆる「カテゴライズ化」は様々な弊害ももたらします

学校の「いじめ」なんてのも そうでしょう 行った者は未成年ですから服役する義務はありませんが 法的には「脅迫罪」であり「暴行罪」であり さらに重い罪状として問われるものを 十把一絡げで「いじめ」と呼称してしまうところに 公教育機関である「学校」のしたたかさと狡さを感じます 「道徳と倫理」の区別ができているのかさえ怪しい文科省という機関から県を通じて「徹底した”いじめ”の実態調査とその結果を報告せよ」とやっているんでしょうが こんな言葉を用い そんなやり方しているから起こるのだと どうして気づかないのか不思議です それよりも刑法や民法 少年法等をしっかり教える方に力を注いだほうがまだいいのでは?と思います

「倫理」は当人の内側にある善悪・是非の心 「道徳」は善悪を”教え込むこと”  日本の教育が今力を入れているのは後者。お得意詰め込み教育しかせず 倫理という当人の学びを押しつぶしています

ある小学校で「ウクライナでの戦争を終わらせるには?」という子どもたちへの質問に「プーチンを殺す」と答えた子に対し 読んだ先生は何と答えたのでしょう?大人の狡猾さをもってして ”またしても丸め込む” という手を取ったのでしょうか…

 

オーデンの「1939年9月1日」という詩が人の本質を突いていると感じる私にとって

人はどうしたって独りで生きることは不可能だと思います。

山小屋で一人暮らしをしても 物々交換をしに里へ下りなければなりませんし

空腹を満たすためには 籠っていても部屋から出てコンビニに行かなくてはなりません

そうやって考えると

「おひとり様」とは不可思議な造語です 「不可能」だから。

人は人と関わらずには生きられず だからこそ様々な事が起きるのも当然かと。

 

あ。こむら返りの話からどんどんズレていきましたが 

足が吊るのも私だけではない という結論で終わりにしたいと思います。

 

kei

ジョン・レノンが1967年 「今年の曲はこれしかない」と言い切った曲

和訳がイマイチ納得しませんが…


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