kei 「蜘蛛の糸Ⅱ」

2023年3月退職 後の生と死を「絵と言葉」で考えたい…4月からは「画家」か?「肩書を持たないただの人間」として生活していこうと考えています。

「軽自動車も役に立っていた」

前回のデブで大きな猫と違ってこちらの猫は軽乗用車の下で 強い日差しを防いでいました

なので 色んな車が役に立つわけです 「日よけ」として

猫は日傘をさせません 野生の山猫とかスナドリネコとかなら 木陰で休んでいたりするのでしょうが 人間世界とテリトリーを重複している「野良猫の類」はこうして車やら建造物の陰で光を防いでいるわけですが…コレって自然と云えば自然だし そうじゃないと思えばそんな気がするし

「自然」って一体どこで線を引けばいいのかわからなくなってきました

 

植物で強いのは「マメ科」「イネ科」「キク科」なので 地面を放置しておけばこれらがうっそうと茂ることになる これが温暖な地域での自然であるとも思え

以前も書きましたが 森を数百年放置し続けると「ブナの森」に変わっていくとか

これも「自然」と呼べるかもしれませんが

「都市化」とか「人工妊娠中絶問題」って どうあるべきで どうすることが自然なのかわからなくなってきます エホバの証人である親がわが子の輸血を拒否して死なせてしまう これは「ネグレクト」ということになるらしいですが…事 人間とか人類に限っては 何が どうすることが自然なのか?

 

それというのも 現代の人間が「不自然な存在」だからなのかもしれません

 

不自然な存在である人間にとって 自然な生き方 自然な死に方とは一体どんなものなんでしょう

 

人間は「自然」と言葉で用い使えるほど 自然を理解しているのでしょうか…

 

だから 遺伝子操作であるとか 脳にマイクロチップを埋め込む というアイディアに関しても「長く健康に よりよく生きられるなら それに越したことは無い」と判断しそうな気がします そこに「自然」という概念が入り込む余地があるのかどうか 50年くらい経ってみたらわかるんでしょうね 多分

 

あ。そうそう…若き日の藤原新也の手記「インド放浪」では いわゆる変死体は 焼かれぬままガンジス川本流や支流に流されるので 中州に打ち上げられたりするらしいのです

これを藤原は 「ニンゲンは犬に食われるほど自由だ」と銘打っています

このような感性から ドンドン離れて 病室の中で命を終えるのが自然なのでしょうか…

 

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