kei 「蜘蛛の糸Ⅱ」

今後の生と死を「絵と言葉」で考えたい…4月からは「画家」か?「肩書を持たないただの人間」として生活していこうと考えています。           Instagram kei0003939f

AIに採点させてみて思う…

ミケランジェロが89歳で死ぬ日の朝まで彫っていたのは

「ロンダニーニのピエタ」

イエスの膝から下はしっかり彫られていて、血管まで浮き出ている

けれどそれ以外は荒彫りの状態のまま…。

絶命したので「未完成であるのは確か」だと思う

けれど ミケランジェロの場合 ピエタ以外にも「奴隷像」の数々で「彫りきっていない作品が結構ある」

なぜか? この16世紀の怪物は「完成するとはどういうことか?何の意味があるのか?」という疑問を持っており手記にそう残している

実際 このピエタも奴隷像も彫りきっていないところが、深い魅力を湛えている

ミロス島のヴィーナスの失われた腕 サモトラーケのニケの見つからない頭部

「無い」ことで有名な作品は他にも色々ある

 

近頃 InstagramのAIを含め 4つ程度に私の作品を採点させている

別に上手い絵が描きたいわけでもないし 点数も改善点もバラバラだったりする

AIを当てにして描いている絵 というのは枚挙に暇がないくらいあるような気がする

それは「絵を見ればなんとなくわかる」

おそらくはより良く、美しく見せたいからで そ

れが販売に結びついているのだから真剣だ ただその目的が明瞭で匂いがついているのか…わかる

 

ただし それは「現代のAI」の力であって 今後はわからなくなるかもしれない

なのでThreadsにこう書いた

 AIの採点の基準は比較的わかりやすいんじゃないかと思います。…といってもそれは現段階の話ですが。 その答えの一つは①完成度 ②見栄え あと、③他に類似の作品があるかどうか…あたりだと思います。なので先に書いたミケランジェロの「非完成」の判断基準は持っていないと思われ、持っていたとしてもその幅はあまり広くない。と私は考えています。そして、それは現代の絵画やデザイン全般にも見られる傾向で、その作品のタイプはデータの中から抽出し、分析はできるけれど、完成度や見栄えを気にしているのがわかるのです。それは、人間の感性とは違っていると、私は思っています。

このように私はミケランジェロの作品を「未完成」ではなく「非完成」と形容した

それは 生き方にも通じている気がする

 

【カタコンベ】

 

【White stone crack】

 

kei

無宗教

自問してみる 私は仏教徒か? いや仏教建築や美術は学んだが仏教徒ではない

だが「無宗教」だと言い張れるほどの主張も論拠もない なのでボンヤリしてるだけ

同居人はクリスチャンだが、ミサとクリスマスくらいしか教会に行かないし、7年一緒に暮らしたシマリスが大好きだから自分は「コリスチャン」だと名乗っている いい加減なものだ 敬虔なクリスチャンである長崎在住の義母は現在「白寿」 俳句の先生としてまだ動けるとのこと…今月あたり迎えが来そうな94歳の実母とはエライ違いだ

ただ、先のことはわからない。わからないけれど「準備」として考えていることはある

葬儀は慎ましい「家族葬」とし、立正佼成会だか入会していたこともあったが 後年はどうでもよくなったらしいので 日蓮宗の系譜の証拠である「南無妙法蓮華経」は要らないと思っている 父親は浄土真宗系だったので「南無阿弥陀仏」だったが…どちらも唱えてもらう必要がないと考えている

父と同じ墓に入ってもらわなければいけないので 戒名がいるだろう 勝手に作る

兄のバンドの名手のキーボーダーに「弦楽のためのアダージオ」でもいい。「主よ人の望みの喜びよ」もいい。弾いてもらい、白花の献花がいいかと…

読経は私が「般若心経」を式と荼毘に付した後あたりで詠めばいい これは形式ではない ゴーダマ・シッダールタその人が見つけた「世界の本質に近い考え」だと、私が感じているからに過ぎない

色即是空 空即是色 罪も無辜もない 老いも老いぬこともない 生も死もないことも あることもない この世があることも あの世もないこともない

  二元論そのものが世界とそぐわない

 

あれからも何枚も絵を描いた 読んでくださる方々には非礼だ 日記のように毎日綴れない 楽しい絵は まだなのか 当分なのか ずっとなのか…描けない

 

【血の落書き】

 

【燃焼の匂い】 

 

【Distance】

 

【Zone of Collapsing Memories】

 

kei

絵はウソがつけない

大学生まではさんざんアイディアスケッチをしたり、エスキースを描いたりして大作に挑んだもんだし 中・高校生の時も明確なアイディアやプランをもって描いたため

「描く前にある程度、完成作品が見えていた状態で描いていた」ことになる

ただ、歳を重ねるにつれてそれをやらなくなった

それは いいことなのか 良くないことなのかもわからないまま そうなった

おそらくは 人生観とかが関わっている気がする 昔はプランとか、目標とか、かくあるべき、とか…そんなもので頭が一杯だったんじゃないだろうか だからそういう絵になった

今は違う 「こんなテクニックを使おう」程度まで決めたら あとは夢遊病者で どこにたどり着くのかわからない霧の中を彷徨する状態で 尿意も忘れて描くので 突然膀胱がパンパンになっているのに気づき(というか歳のせいで、我慢できなくなってきた)トイレに駆け込む 描いた後立ち上がると 平衡感覚が保てずよく転ぶ

ここら辺は歳のせいだが 描き方が変わったのは確か

他にも描いているが1枚だけ  う~暗い。

あっちこっちでの戦争や母親のことが影響しているのだろう…自覚はないのだが痛覚が前面に出てきてしまう

「絵は美しいもの」とは私は全く思っていない ただ自分の中のリアルを描ければそれでいい。とも思うので 結果「痛い絵」になってしまっても仕方がない

 

【Crown of thorns・Undeciphered script】  訳 【荊冠・未解読文字体系】 

kei

 

宙ぶらりん

絵を描く場合、この精神状態はよろしくない

いつまた 旅券を急遽購入し故郷にもどらなければいけないのか

「明日は誰も見えない」 と毎日のようにInstagramにタイプしている張本人が

心のどこかが身構えている

 

いつも見る夢は 子どもや学生時代20% 働いているとき80%  という夢

目を覚ますたびに 「あ。今の俺は もう教師でもなんでもなかった…」

と気づく

 

今は今だけだし 過去は存在しないし 3次元+時間=4次元がこの地球の上と頭の中に教え込んでも トンと実感がない

なので描く作品はよろしくない

あと何日続くやら

 

【偽メゾチント】

 

kei

名古屋はまだ夏 北海道は秋の気配がした

①【非対称の顔】

私より30歳年上の母は今94歳。養護施設で生活していたが、食べることができなくなり、命が危ない状態になった。2人兄弟の下の方である私も当然、呼ばれた。名古屋はアジア大会の影響か、すぐ行ける飛行機がなく、札幌到着は月曜深夜となり、面会できたのは翌火曜日午後の1時間。3連休だったので、担当医師は不在で、容体もわからないまま母と面会した。認知症がさらに重度化しているのは予想できていたが、私が名乗っても、思い出を話してもその度毎母は徐々に苦悶の表情に変わっていく。肉体が苦しいのも、心が苦しいのも同様なのかもしれない。私は精一杯の笑顔で母親の手を撫でることしかできなかった。 でも、なぜだろう?私の右目からだけ涙が流れ落ちる。人間の顔は対称ではない。私の場合、左利きで、目もそうなので、左目はきつい目に変化し、右目は逆の印象を与える目になった。だから、私はピカソのキュビズムの大切な部分を知っている気がする。

「対称的な顔は美しい」…それはAI美人もそうだろうと思う。私の顔はその点醜い。けれど優しい目からだけ涙が伝うのを体験し「AIよりピカソがリアル。」…病院をあとにしながらそう思った。

 

②【川岸にコンクリートのない自然な川はこの間の洪水騒ぎでも氾濫しなかった】

一度「危篤状態」に陥った母親の病院に翌日も、1時間かけて面会に行った。辛い表情になってほしくなかったので、手を握りただ笑顔で「俺が誰かなんてどうでもいい。楽にして。夢を見ていて…」と囁きき続けた。すると30分経った頃、私の手を放し、胸の上で静かに両手の指を組み。重度の認知症とは見えぬまっすぐな目と表情で静かに天井をじっと見続けていた。母が「目を開けたまま棺の中にいるよう」に見えた その様子がスイッチとなって、私は立ち上がり離れ、バイバイと手を振ると、母も手を振ってくれた。 あと何日、あと何週間、あと何か月…? 死にゆく者を憐みの目で見るのは「生者の奢り」そんな気がした。 母も、私も、世界の誰かも同じなのだ。 人は生の苦しみを抱えると同時に、「生きているのは当たり前のことなのだと、無自覚になりやすい」私は帰宅し、天白川を見ていた。年に一度しか草を刈らなれい、そこはカモや亀、カエルの住む自然の川。秋になればもっと生え放題になる。 限りなく絡み合う無数の命で満ちている。

 

kei

明日は北海道 4日間の旅

「明日死ぬかのように生き、永遠に生きるかのように学べ」      耳の痛い言葉である
北海道にいる母親が今、死の秒読みのような態勢に入っている
急いでチケットを取ろうとしたが、明日となった
「いつ」なのかは天に任せるしかない
この言葉は元々仏教からの引用のようだが、有名にしたのは この人

もうすぐ消えようとしている母に向かって「もう 学ばなくていいから。」 と呟く 

代わりに私が背負うのだろう

ただ 制作している時が、なぜか一番安んじる時だと昨日今日でわかった 

それはこの言葉が、まるで「背負う荷」というわけでもなく 安らぎとも繋がっているのだろう…と感じた

 

このような精神状態で描いた

 

【Stained glass quarry】

 

 【after the rain】

 

kei

 

「脳内補完」 AIに対する私の一つの回答

エコフルという養生用床材をご存じだろうか。三六ベニヤ(180×90cm)大で、厚さは2mm程度でクッション材としても優秀で、バスルームとその周辺をリフォームしてもらった時に、業者さんが、玄関からバスルームまでの通路に自然にこれを敷いてもらった。工事終了後、片づけている様子を見て、私が「いい床材ですね」と話したら「どうせこの後捨てるのであげますよ」と言ってくれた。値段を聞いたら1枚500円というのに驚いた。計2枚とほんの少しの部分だけ切ってある1枚。計3枚もらい、私の絵を描く部屋に敷いた。部屋はそのせいで、グチャグチャで、この間購入した3Dプリンタもまだ置けないが、これで、床に絵の具をこぼしても、バケツをひっくり返しても安心。今までは、100ショップレジャーシートを敷いていたが、やはり絵の具が染み出て、下のフローリングをすんごい汚していたので助かった。

Amazonで同様の素材を調べてみたら当たり前のように1枚1万円を超えていた。15枚セットで2万弱というのもあったけれど…こういうものはホームセンターで買うものじゃない。プロが出入りする比較的こじんまりとした素材屋とか工具店にいかないと…

 

ま、部屋の片付け、おびただしい道具の整理整頓に忙殺される日々だが、その中でも2枚制作した。どちらも「キリスト教的」な作品になってしまったのは、偶然というか、精神的にそっち寄りだったのか「弦楽のためのアダージオ」を聴いてしまったしまったせいなのか…よくわからないが、そうなった。

どちらの作品も見た目「なんだかよくわからない」

なんせ作り上げた当人も、それを意識し始めたのは完成寸前なので「そうは見えないかもしれないし、そう見えなくもない」という見る人の感性に依る作品であるに違いない。今のAIは推論可能だが、木のうろが人の顔に見えたり、何気ない影が幽霊に見えたり…というのは至極人間的だと思った。

「人は脳の中で何かに見立てようとする」 それは時に錯覚を生むが 想像も生み出す

 

【母子像】

 

【「最後の審判」の地獄部分】

 

 

kei