kei 「蜘蛛の糸Ⅱ」

2023年3月退職 後の生と死を「絵と言葉」で考えたい…4月からは「画家」か?「肩書を持たないただの人間」として生活していこうと考えています。

「自己愛」

この三つの漢字を読まれて どのような印象を受けるでしょうか…

必要だ あって当然だ と思われる方もいるかもしれませんし

それは「自惚れ」と大差ないものとして否定的に感じられるかもしれません

 

大人となれば大方の人は 社会で活動し 色々な人々と接する機会が増えて 時には精一杯尽力したり 逆に落胆し 疲れ果ててしまうこともあるでしょう

どちらであっても「他者への情」というエネルギーを使っている事には変わりはないと思います

では それをやりすぎるとどうなるか…

「自己愛を知らぬ間に 知らない場所で 落とし 失くしてしまう」ということが起こるのではないかと思います

 

なぜこのような事を書いているのか つらつら考えるに「欲」「満足」「愛という情」を三大宗教の教えの中で否定的に解釈している部分があるからかも知れません 開祖の説いたことがどのようなものであったかは 今となっては「絡み合った糸玉」のようで判別することは難しいですが ユダヤ教が「原罪」という 罪を背負った状態から人類の歴史が始まっていると考えれば 欲や満足 自己愛も肯定されない気がするからです

ですが 情 もしくは 愛とは奇妙な物質で 他者に分ければ分けるほど豊かになる とは言い切れないようにも思え 高貴な心を持っている人ならそれは可能かもしれませんが 先述した通り「他者に分配し過ぎて 自分への愛情を落としてしまう」ということが 少なからずあると感じます

 

さて…これは誰に向かって言っているのか 自分自身のような気もします

自己愛=自分を慈しむ感情は おそらくは他者を慈しむ源泉であり 田畑に広がった水の流れに執着するよりも 時折 自分の泉に立ち戻り 確かめ 愛情を持つのがいいのだろう…と思うのです。

自己愛だけの人間は他者からあまり愛されないかもしれませんが

自己愛を失った人間もまた 時に及んで悔いることになるかも知れません

 

幼い子供は 自覚しないままに「自己愛」に包まれており この方が自然なのだと思います 宗教は「大人」にはアレヤコレヤと吹き込みますが 子供を相手にしていないことが気にかかります 自然はどちらの味方なんだろう…

 

鏡の中の自分を醜いなぁ…と感じながらも それだけの自分でいては いつかどん詰まりがやってくる気がするのです

 

kei