kei 「蜘蛛の糸Ⅱ」

2023年3月退職 後の生と死を「絵と言葉」で考えたい…4月からは「画家」か?「肩書を持たないただの人間」として生活していこうと考えています。

「人はみな心のほどの世を渡る」

2022年01月29日記事から加筆

 

ある「自己啓発」に類していると思われる本で「リフレーミング」=「時の流れと共に年齢や状況によって自己を再設定させ リスタートを切る」ことについて書かれていました 言っていることは納得できましたが このような新しい言葉に夢中になるほどではないし 何より自己啓発本関係にはあまり興味がなく「直ぐに役立ちそうだからこそ 深みもあまり感じられない」というのが私の概ねの意見です

ふと安部公房芥川賞作品「壁」を思い出していました いえ ストーリーはほとんど忘れたかもですが 序文を書いた 作家「石川淳」の文章が俊逸で 当時新米作家であった安部の作品をすでに大作家の石川が いかに安部公房という作家に惚れ込んだのかがわかります 石川の予想の通り安部公房は世界的作家になりました 先に書いたリフレーミングと安部の「壁」はニアミスしている箇所がある気がし 安部は「壁」を「象徴」とともに「単なる物質」として表現しました

牢に入れられた時 四方は壁 さて…どうするか

まるでグルリと壁に阻まれたような精神状態に陥った時

安部公房であれば「どうだろうが『壁』」だろ?」とサラリと答えるかもしれませんが 今多くの現代の人々を苦しめているの精神的壁≒フラストレーションということになるのでしょうか

石川淳は洒落っ気たっぷりに見事に言いのけます「壁はあり、壁はない。いいや壁はある。それは安部君がその壁にむかって何かを描くために、壁はある。」という感じの言葉を

石川の言葉や安部の「壁」は リフレーミングという概念より さらに差し迫った精神に響く力を持っているような気がします とはいいつつ リフレーミングについて本を出版した方も面白い諺を挙げています

 「人はみな心のほどの世を渡る」

逆を言えば 「自分の心が受け止められない物事や 理解できない事柄とは無縁のまま通り過ぎる」
ということでしょうか…納得してしまいました
地球という惑星の上で 世界の中の日本で 日本の現代社会で生きているという広範囲の広角的な感覚は 実は「思い込み」に過ぎず 自分の心のほどの人生を生きているに過ぎないのかも知れず その点で「相当狭い」というのがホントのような気がします
だから人は他者からは見えない壁を東西南北に作り もしくはその中に押し込められたと感じ 息苦しさを感じているのかも知れません

「壁はあり、壁はない。」 養老孟子氏の云う「バカの壁」も「思い込みによる閉塞の壁」如きもの…

近頃 あまり文章が思いつかないのは 私の精神状態が良好ではないというより 閉塞的な内容や暗い内容を今は載せたくないという装置が働いている気がします なぜそうなのかをさらに突き詰めれば私自身が愚かで 壁の中にいるのかもしれないという気もします

石川淳は「野火」という作品で第二次世界大戦下の東南アジアでの惨劇を描いています 絶対の飢餓に陥った兵士は 互いの肉 つまりは人肉まで食ってしまう地獄的世界です 石川はそんなそんな世界を実際に見 表現した人物 石川にとって今の社会がどれ程のモノでしょう 

「壁に挟まれている」などと愚痴をこぼしたら一笑に付されるかもしれません

kei

今は「偏在」と「遍在」について考えています 相反するほど意味の言葉ですが 神が遍在しているというならば 私を含めすべての存在がホントは 自分の今の立ち位置にいるのではなく 世界に遍在しているのかもしれないと…