kei 「蜘蛛の糸Ⅱ」

2023年3月退職 後の生と死を「絵と言葉」で考えたい…4月からは「画家」か?「肩書を持たないただの人間」として生活していこうと考えています。

「終活」 予測されている死と本当の死は全く違う

この思考は数か月間に渡り いろんな人の言葉や 事実 それから私なりの思考から生じました

長々書いても面倒ですので箇条書きにしましょう

①自分も誰しも「自分がいつか死ぬ」と予測はしている それは数万年前からの人類の発見による

②「メメント・モリ」(死を想え)というラテン語がある それを基盤とし 今の生を逆算しながら考えるのには大切な言葉だとだと思う

③「悟り」というなんだかよくわからない精神的境地のカードの裏面には「死」という字が書かれているのではないかと 私は察する なので私なりに考えれば「10年間悟りながら生きている人」っているのかどうか疑わしい

以降は近頃ハマっている養老孟子氏やドキュメント作家立花隆あたりから影響を受けた

立花隆は死後「ゴミ収集車で回収して投棄してくれ」と言った 察するに生きている間と死後に明確な線引きをしており 死後はゴミ如き物体に過ぎないと考えていた

⑤養老孟子氏は「最も正直な人間は 解剖台に載っている死体だ」と言った

解剖のためには服をまとってはいないし メスで切り開いた翌日もその状態で残っている そこには「身分も 感情もない『人間そのまま』」が実感される 但し死んでいるけれども…

⑦自殺者は死ぬ寸前まで「生に悩む」という そのためほぼ同じ動機で 行ってしまった人と 踏み留まった人がいる これは「通り魔殺人犯」の心理と共通点があるとも言っており 突然路上で無差別に数名を殺した殺人犯について 警察は「取り調べ」という長い日数を要するが 結局のところ「誰しも納得する回答は得られない」 なぜなら通り魔殺人という行為そのものがマトモじゃないので 動機もマトモじゃない と考える方が妥当だから。 自殺の場合 様々な要因があるものの…納得できる理由は「当人以外」にはわからないことが多い

加賀乙彦「死刑囚の記録」を読んだ

 死刑囚たちはいつやって来るかもわからない「死刑宣告」を怖れ それを待つ間が「死刑」と呼んでいい程過酷であるとのこと なので何度も控訴したり 精神的におかしくなってしまう死刑囚も少なくない 以前は前日に宣告されていたようだが 自殺を回避するために現在では「当日の朝」というのが慣例で 午前中に執行される

 

…さて 私たちは「死刑囚」とどこが同じで どこが違うのだろう

 

いずれ死ぬのは同じである

 

だから「終活」という身辺整理のようなことをするのだろうし それは他者への配慮

 

前提として 生きているから「終活ができる」とも言え

 

「死」そのものは おそらく異なり 予想やイメージと全く違う気がする

 

坂本龍一の「終活」         彼のピアノは生きていた

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