kei 「蜘蛛の糸Ⅱ」

2023年3月退職 後の生と死を「絵と言葉」で考えたい…4月からは「画家」か?「肩書を持たないただの人間」として生活していこうと考えています。

「一休さんの遺言」

2021年05月01日記事

出生地は京都で 出自は後小松天皇落胤と伝えられている つまり天皇の落とし子
「破戒僧」とも言われ その生は面白おかしくもあり 当時形骸化してしまった仏教に対し鋭い指摘も残している
wikiから引き抜くと
応永27年(1420年)、ある夜にカラスの鳴き声を聞いて俄かに大悟する。華叟は印可状を与えようとするが、一休は辞退した。華叟はばか者と笑いながら送り出したという。以後は詩、狂歌、書画と風狂の生活を送った。

正長元年(1428年)、称光天皇が男子を残さず崩御伏見宮家より後花園天皇が迎えられて即位したが、この即位には一休の推挙があったという。

文明2(1470年)、摂津国住吉大社神宮寺の新羅寺本堂・薬師堂で森侍者(しんじしゃ)と出会う。

文明6年(1474年)、後土御門天皇の勅命により大徳寺の住持に任ぜられた。寺には住まなかったが再興に尽力し、塔頭の真珠庵は一休を開祖として創建された。また、戦災にあった妙勝寺を中興し草庵・酬恩庵を結び、後に「一休寺」とも呼ばれるようになった。天皇に親しく接せられ、民衆にも慕われたという。

文明13年(1481年)、酬恩庵京都府京田辺市の薪地区)においてマラリアにより死去。満87歳没(享年88)。臨終に際し「死にとうない」と述べたと伝わる。墓(御廟所)は酬恩庵にあり「慈揚塔」と呼ばれるが、宮内庁が管理している陵墓であるため、一般人が墓所前の門から内部への立ち入りはできないが、廟所の建物は外部からでも見える。参拝は門の前で行う。 

一休宗純は男色はもとより、仏教の菩薩戒で禁じられていた飲酒・肉食や女犯を行い、盲目の女性である森侍者(森女)という妻や岐翁紹禎という実子の弟子がいた なので破戒僧かもしれないが その人柄と頭脳と出自によって 大徳寺を統べる僧侶の頂点に立ったわけだ

「信憑性という点ではっきりしていない」と言われる有名な逸話がある。

死を迎える前「この遺言状は、わしが死んでもすぐに開けてはならん。宗門の存亡にかかわる重大な事態に遭遇したときに開けて読むようにせよ。たちどころに解決の手立てがわかるであろう。」
宗純は没し、後年このような事態が発生した。重責にある僧侶が集まり、案を出し合ったが名案が浮かばず会議はとん挫した。その座の一人が一休宗純の遺言を思い出し「この時」とばかりに開封した。
一同は固唾をのみ、息をひそめて、読み上げられる遺言状の文言に耳を傾ける。そこに書かれていたのは・・・


  「なるようになる。心配するな。」


流石 破戒僧 天衣無縫 カラスの鳴き声で悟りを得た高僧一休宗純 普遍的な名言である

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