kei 「蜘蛛の糸Ⅱ」

2023年3月退職 後の生と死を「絵と言葉」で考えたい…4月からは「画家」か?「肩書を持たないただの人間」として生活していこうと考えています。

「足るを知る者は富む」について

表題の老子の言葉は 生きる上で大切な言葉だと思う

 

けれど とてもとても…むずかしい

 

「足る」「足りない」ついて 私はしょっちゅう「ガラスカップの中の水」を想像する

写真の水は「6割程」水が入っている この状態を「足りている」と判断するか 「不足している」と判断するかは その人次第

老子の「足る」ことが「富んだ状態=幸福」と判定するなら 6割の水はそのまま「6割の水」と認知し判断することがマトモだと思う なので足りる足りないという「我」は二の次

さらに一歩踏み込むと 「完全に足る状態」にするには2つの方法があることがわかる

1つは「さらに水を足し満杯にすること」

もう一つは「ガラスカップを小さくし同じ量の水で満たすこと」

この方法以外ない これは個人生活から経済活動に至るまで同じ仕組みだと思う

 

さて…老子は「器はおちょこ程度で良い」と言いたいのだろうか…

しかし「水」の例えは富む・富まないの話には留まらないことがある

 

例えば「恋愛」 一日前は「満ちていた」一目ぼれしたら「水は半分になっていた」

それは家族愛にしてもそうだろう 自分は個でいる限り半分までしか水を保てない そんな感覚を持つこともある

 

この世の不条理 不合理 強欲 搾取 あらゆる好ましくないものは 元を辿れば

「愛」だったりする  それが骨肉の争いに変わることもあり

ナザレのイエスの「愛」が 「奇怪な怪物」へと変身することもある

先ずは一人の状態で足りていると感じることが 基盤なのかも知れない


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