kei 「蜘蛛の糸Ⅱ」

2023年3月退職 後の生と死を「絵と言葉」で考えたい…4月からは「画家」か?「肩書を持たないただの人間」として生活していこうと考えています。

「絵は一つの手段」というだけ…

幾人かの方々からコメントをいただき もう一度頭の中の整理をする必要が出てきました。その一つは「宗教」で 以前信仰されていた方に意見を貰いました。

そこで私は 「仏教と言っても様々な宗派があり それは仏教と呼べると思うが、開祖ゴーダマ・シッダールタはそれらの宗教とは『別物』であり、ゴーダマ個人の思想という点で 仏教ではないと思う」と書きました。

またフランスのJ.バタイユの言葉を引用し「2万年前 ラスコー壁画が描かれた時代 人間には2つのタブーがあった。(ここで言うタブーとは『禁忌』ではなく、『精神的に超克不能な一線という意味』)1つは『近親相姦』 もう1つは『未来に予測される自己の死』である」とコメントしました。なので殺人も強盗も強姦も窃盗も バタイユにとってみればタブーじゃないみたいですw

さておき 死のタブーを何とかするために人類が生み出したのは『あの世』という、あるのか、ないのかわからない世界で、それを信じることで永遠性を獲得しようとしたのでしょう。ですから「あの世は無い」という宗教は宗教と呼べるのか…どうなんでしょう? 

「虫や草 原始的生命体にあの世はあるのか?」

もし「ない」のであれば 「人間にもない」と私は思います

人間だけが特別だと感じるのは 自分自身が人間だから という手前勝手な論拠しかないように思われ、虫も人間も生命である以前に「物質」だと私は考えています。

水星には1兆トンのダイヤモンドがあるらしいですが、ダイヤモンドが貴重というわけでもなく 物質であるということには変わりないと思います。路傍の石もダイヤモンドもゴキブリも人間も本質的な部分では等価であり 「たかが物とバカにするでもなく それ以上でもそれ以下でもない」 これが今の私の認識ということになります。

自我があるからと言って 言葉を使えるからと言って 社会を作れるからと言って 人間を特別視し 「神の似姿として人を作った」「神は言葉なり」とは思えません ただし 「人間は特別。神に近い。」と考え、主張する人に向かって Noと答える根拠を持ち得ません。なのでそれは人それぞれ自由であるのは当然です。ただし「自我」「言葉」「社会性」が全ての人間に備わっているのは当然で そうでなければ人ではない。という判断は、やまゆり園殺人犯「植松」と類似していると指摘すると思います。

 

…とこれは 前文でした。

私の師匠がいつも言っていた言葉に「たまたま絵を選択しただけ」というのがあります。なので、絵を描くことは目的ではなく、手段に過ぎないと理解しています。

それは「自らが納得して生きるための手段」のように思われ ミケランジェロダビデだろうが 運慶の「無着像」だろうが モノであるには違いなく 彼等もまた手段として彫刻をしたのだろうと察します。

「何故絵や彫刻をするのか」加えて「何故音楽をするのか」

私なりの答えはあまりまどろっこしくはありません それは…

 

「言葉で表現できないから」

 

言葉は私にとって 不得手 厄介 ムズカシイ 面倒。加えて「誤解の元」

そんなことをわかって文章を打っているのですから バカであるに外なりません。

 

kei

鎌倉時代 運慶作「無着像」   魂入ってる~~~!