kei 「蜘蛛の糸Ⅱ」

2023年3月退職 後の生と死を「絵と言葉」で考えたい…4月からは「画家」か?「肩書を持たないただの人間」として生活していこうと考えています。

「お釈迦になる」

いつの頃生まれた言葉か…江戸時代? ともかく私はこの言葉が面白い。

 

お釈迦になる

作る過程で失敗し,製品として役に立たないものになる。また,二度と使えない状態になることのたとえ。
例 "事故で車がお釈迦になる・った"

 

釈迦と言えば仏の中の最高位「如来」に位置する仏 だのに「壊れたモノに命とか悟りがある」のかどうか知らないが 事故った車がお釈迦様に変身するわけだw

キリスト教では類似の例えが無いだろうなぁ…

なぜこのような言い回しが生まれたのかは 調べればわかるだろうが 私なりに解釈すれば「随分的を得ている」気がする

仏教全般と釈迦=ゴーダマ・シッダールタが語った言葉は異なるのは当然で

大型宗教になるためには「尾ひれ背びれなんやかや」が止めどなくくっ付いてくるし

後代の人物によって変節していることも山ほどあるだろう

ただし ゴーダマ自身の言葉と信じられるのは 般若心経における「存在=空」「生=死」という特異な思考だと思う

生きている人だけが「私は生きている」と言う 死んだ人は「私は死んでいる」とは言わない なぜなら言葉を発するための脳の活動 肺 喉や口等諸々が停止しているから だが どちらも究極的には「同じ人間」であるのだろう

そうであったとしたら 車がお釈迦様になることだってあるかも知れぬ

モノと人と動物 樹木やバクテリア迄ひっくるめて 地球丸ごとレベルで考えれば

仏はどこにでもあり 遍在しているのかもしれない

 

だから 自分の大切なモノが壊れた時 自分の大切な人を失った時

どちらも 同様「お釈迦になった」と思ってもいいのかも知れない

kei