いつの頃生まれた言葉か…江戸時代? ともかく私はこの言葉が面白い。
お釈迦になる
作る過程で失敗し,製品として役に立たないものになる。また,二度と使えない状態になることのたとえ。
例 "事故で車がお釈迦になる・った"
釈迦と言えば仏の中の最高位「如来」に位置する仏 だのに「壊れたモノに命とか悟りがある」のかどうか知らないが 事故った車がお釈迦様に変身するわけだw
キリスト教では類似の例えが無いだろうなぁ…
なぜこのような言い回しが生まれたのかは 調べればわかるだろうが 私なりに解釈すれば「随分的を得ている」気がする
仏教全般と釈迦=ゴーダマ・シッダールタが語った言葉は異なるのは当然で
大型宗教になるためには「尾ひれ背びれなんやかや」が止めどなくくっ付いてくるし
後代の人物によって変節していることも山ほどあるだろう
ただし ゴーダマ自身の言葉と信じられるのは 般若心経における「存在=空」「生=死」という特異な思考だと思う
生きている人だけが「私は生きている」と言う 死んだ人は「私は死んでいる」とは言わない なぜなら言葉を発するための脳の活動 肺 喉や口等諸々が停止しているから だが どちらも究極的には「同じ人間」であるのだろう
そうであったとしたら 車がお釈迦様になることだってあるかも知れぬ
モノと人と動物 樹木やバクテリア迄ひっくるめて 地球丸ごとレベルで考えれば
仏はどこにでもあり 遍在しているのかもしれない
だから 自分の大切なモノが壊れた時 自分の大切な人を失った時
どちらも 同様「お釈迦になった」と思ってもいいのかも知れない
kei