kei 「蜘蛛の糸Ⅱ」

2023年3月退職 後の生と死を「絵と言葉」で考えたい…4月からは「画家」か?「肩書を持たないただの人間」として生活していこうと考えています。

「キュビズム」

1907年 パブロ・ピカソは突然2m平方を超えるこの作品をいきなり発表しました

アヴィニョンの娘たち」

後にキュビズム(立体主義)に加わる友人のブラックでさえ「ピカソが狂った」と言わしめたこの作品

ご覧のように目は正面向き 鼻は横向き 口は斜めについていたり と決して美しいとは言えない絵

ピカソは子どもの頃から天才的な画力の持ち主なので

こんな絵も易々と描けてしまうんですが…

この絵に至っては 片目が正面 もう一方の目が横向きになっています

 

いくら芸術の街パリと言えど こんな絵を良い絵だと直ぐに認めるのは「ない」はずなんですが ゴッホとは違い 早々と「天才ピカソ」という名前が世界に轟きました

その理由の候補はいくつか考えられる気がします

①10代前半から とんでもない画力を披露していたので「天才のやることだから…」と画壇が認めてしまった

後期印象派セザンヌ」の表現の延長として その完成形として「多視点」の表現技法が「新風」として歓迎された また写真では表現できないという点でも評価を高めた

 …と こんなところかとも思うんですが 私はキュビズムというのは「もっと深い事実を提示している」と思えてなりません

 

当然ここからは 私独自の「1面的見解」に過ぎませんが…

ピカソは 「人間とはなにか? それをどう表現すべきなのか?」考え続けた結果こうなった…と思われるのです。 

1枚目のアヴィニョンの娘たちは「アフリカ彫刻」の影響を受けたとか 評論家に様々な解説がなされているのは知ってるんですが…

ピカソにとっては「定点で観察(見る)だけでは 本体ではなく一部を写し取っているに過ぎない」それは 観測の仕方によって 粒子に見えたり 波に見えたりする光の性質のようで 当時の「物理学」と整合性がある様に感じられます

裏を返せば 2枚目の一つの方向から見て描いた絵は「その人の一部でしかない」と語っているような気がします まあ 相手の女性に強い恋心がある時は美しく描き 恋心が失われつつある時にはキュビズム的に描いた というエピソードもありますが…

 

「全ての存在は多面的であり それゆえに一部しか捉えることしかできない」

これがキュビズムの根本ではないかと 私は考えます

先にも書きましたが「私の意見もある1面」に過ぎません

別の誰かの意見も おそらく1面でしかないのでしょう

それが 名高いインフルエンサーだろうが 教祖様だろうが 誰であろうが

「光そのもの」のように 実体を捉えることはできず 

「1面においては正しくもあり」 全体として考えるのなら「異なる意見もまた正しい1面でもあり」 結局のところ「自分の言っていることは全く正しい・真理であると言った瞬間に”誤りに変わる”」という事だと思っています

 

…と考えると「バイアス(思い込み)に飲み込まれやすい生物が人間」ということになるのでしょう…

 

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