kei 「蜘蛛の糸Ⅱ」

2023年3月退職 後の生と死を「絵と言葉」で考えたい…4月からは「画家」か?「肩書を持たないただの人間」として生活していこうと考えています。

雨を知る

また 冒頭から関係ない話だが 養老孟子師の「自然」についての話が興味深かった

明治神宮には明治天皇に 全国から寄進された10万本の樹があるそうで それは「永遠の杜」と呼ばれている 他県にもいくつかあるようだが この杜は天皇所有なので「一切の手出しができない自然林」ということになっている 当初は 椎・樫・楠等の「照葉樹」が生育用に植えられたが 50年 100年と経過していくうちに生態系も変容し始め 現在では3万6千本の大樹に減っており 大隈重信を中心として「論争」まで巻き起こった 天皇の杜らしく杉材で整えたら良いのではないか?という大隈の意見に対し 本多静六は「手を付けるな」と反対したらしい かように50年 100年 300年という長い単位で森林を見た場合 期待通りなるわけではないし 生態系も複雑さを増す

養老氏の弁では それは 勝手に生えている雑草のみならず 目に見えないバクテリア 無生物まで深く関係している環境であり 100年足らずしか生きられない人間が「知ることが出来ないモノ」だと言っている

ここで「知る」という言葉には大切な意味がある 氏は「その森林を知るためには そこを歩くしかない」と云っている

確かに歩いたとして バクテリアが見えるわけでもなく 1つを知ることは10の無知を発生させる だが 顕微鏡でバクテリアを確認することが「森を知ったことにはならない」という事ではないかと思う

 

今朝 外に出ようとしたら「雷雨」だった 30分遅れて雨の中で「ジャンパーと短パン 素足に運動靴」という奇妙ないでたちで海浜公園まで歩くことにした 案の定行き違った人は傘をさす女性1人。 

私は「雨を知るために」雨の中を歩くことにした…

実際歩いていて 1つ思いついたことがある 

「なぜ中高生は 多分に女子は雨の中で傘もささず濡れて歩いて帰るのか?」

これは「涙」なのだ

そこには主語はなく 私であっても 誰かであっても 世界であってもいい ただ 普段涙を流すことが無い私にとって 顔から水の雫が滴り落ち続けるのは涙と同じカタルシスを感じるとわかった 中高生女子の「想像画」見れば一目瞭然 そこから感じ取られるのは 男子よりも早く成長してしまった「少女と女の混合体」であり それゆえに孤独で 涙を流し 非常に性的 それらの「抑圧」がヒシヒシと伝わる それだから ずぶ濡れで帰りたいわけだ…

女の子の話はこれくらいにして 私も雨の中で知った。

理科の時間 先生は言うだろう 「上空の雲の中の水蒸気が過飽和状態になると 塵を核として水玉を形成し地表に落ちる これが『雨』という現象である」

今の私なら 最初にこんなことを教えない

「雨の日 雨の中で子どもを立たせる」 最低30分は打たれてもらおうか…

養老氏が言うように それを知るには「その環境の中に身を置かねばならない」

ウクライナ戦争に飛び入りし 亡くなった一人の日本人を 私はバカなどとは絶対に思わない

人が「生」を知るには 兎にも角にも「生きてみるしかない」

貧しさを知るには 貧しくなるしかない

人が「死」を知るには 死ぬしかない

これを「体験学習」などという「軽率な言葉」で論じるモノじゃない

「知る」ことの第一歩と最後の一歩はこれしかない

 

kei