これも養老孟子氏の講演からのパクリなんですけどw
例えが素晴らしくて 記事にしたくなりました
今 若者に対し授業を行っていることもあり どう伝えたらいいのか考えているからでしょう
養老氏は「個性」であるとか「独創性」であるとか もしかしたら「才能」というモノさえ 言葉にするまでもない どうでもいい事だと述べています
それを「目が見えない状態でゾウに触れる」という仮想実験で説明してます
個体としての人間は「それぞれ異なっていて当たり前」 その証拠として目隠しをしたままゾウに触れたとして その状態のまま「ゾウとはどんな生き物か?」と問いても 答えがバラバラであるに決まっている…と。
ある人は角だけ触れてゾウという またある人は固くザラザラの肌に触れゾウという…
養老氏の着眼点の鋭さは「確かに一部しか触れていないのだから ゾウそのものではないが 実際に触れて得た独自の感覚や発想は間違っていない」というところにあると思います
絵を描く行為はゾウを表現することではありません 触れた感触に全神経を注ぐことに似ています
しかし人は集団で生きる以上 ゾウを定義しなくてはなりません それを「目隠しを外し見る行為」と思いがちですが 見るだけではゾウの重さも 骨格や内臓の構造も見抜けません それでも何とかして共通理解とコミュニケーションを図るために「言葉に変換されたゾウ」を用いざるを得ないことになる
今私が用いているのも言葉ですので「実体とは異なり 無理に言語化されたもの」なのだと思います
現在の先進諸国といわれる国々は 言葉に満ちています。
しかし言葉は 実感でもないし 多くの人が「とりあえず是とした概念」にすぎず これを重視・多用し 言葉の中で考え 生きることは「非現実的で危うい」と養老氏は警鐘を鳴らしています
ChatGPT… 全て言葉です
会議や文書… これも全て言葉です
「ゾウ」の実体を知らぬまま 会議などで聞いている皆も 同様に理解していると勝手に信じ込んで 「ゾウ」という単語を事も無げに使っているのです
あ。私はゾウに乗ったことがあります 後方に乗った友人2人はゾウの尻が丸かったので 歩き始めたら滑り落ちましたがw
人間同士の共通の理解を目論み 必要に駆られて生まれたのが「言葉」
実体とは 似ても似つかぬ二次的産物であることを知った上で 用いなければならないのでしょう
kei