kei 「蜘蛛の糸Ⅱ」

2023年3月退職 後の生と死を「絵と言葉」で考えたい…4月からは「画家」か?「肩書を持たないただの人間」として生活していこうと考えています。

「個性」

現代の教育界では「個性を重視する教育」について悩んでいる節がある。

なので校則をどうするか…とか どんなカリキュラムを組むかとか揉めているわけだ

LGBTと呼ばれる人々についても 国家や宗教の問題でYESだったりNOだったりする

 

養老孟子氏からまたこのヒントを得た 自分の中で十分には咀嚼されていないので 今書くべきではないのかも知れない

 

養老氏に言わせれば「教育は社会で生きるための知識技能と言えるため、その中には対人関係の円滑、他者の心情の理解等も含まれる」とのことで”画一性の高いモノ”であることは当然だ という事なのだろう これをベクトルAとする。

 

しかし「個性を伸ばす」とは”非画一性”の方向に向かうという ベクトルBで 詰まるところ「真っ向から対立する もしくは可逆的なベクトルを同時に教えていることになる」 なので現代の日本教育自体が「矛盾をはらんでいることになる」

 

しかし養老氏は解剖学者である これに見事な回答をする

 

「そりゃ”人間社会という枠組みで考えるから そのような狭っ苦しい自己矛盾を起こす”」と言っている 例として言えば「自分の個性を見せようとする相手は 対人間」「自分に個性がない と自信を失うのも 対人間」 だから「世界を人類だけだと思っている誤解がその根にある」と言いたいのだろう

 

氏に言わせれば 個性とは「皮膚」であるという 

 

皮膚は親であろうが兄弟姉妹だろうが移植できない 移植をしても剥がれ落ちてしまう

だから自分の身体の別の部位から移植するしか方法がない(一卵性双生児の場合は可能なようだし IPS細胞の発展はそれを乗り越えるのだろうが…)臓器は移植が成功することがあるのに 皮膚は出来ない

それは人間だろうが 動物だろうが同じなのだ

 

だから殊更に「個性」と声高にしたところで 「個体差があるのは当たり前」なので大して意味が無い と言っている

 

LGBT? そのようなタイプの人物を猫が見上げたところで 猫は何とも思わない

 

こだわるのは ひしめく人間世界で生きていると思い込んでいる人間だけである

 

こうして考えると「宗教」ってのも なんだかヨクわからん…

 

kei

ネットで勝手に拾ってきました この人の性別がどうとか どうでもいいんじゃないかと…