kei 「蜘蛛の糸Ⅱ」

2023年3月退職 後の生と死を「絵と言葉」で考えたい…4月からは「画家」か?「肩書を持たないただの人間」として生活していこうと考えています。

「死者を素体として考える」養老孟司考

今まで多くの人物の著作や言葉から影響を受けた 今は養老孟司氏の言葉が面白い。

それらはYoutubeでいくらでも観られるので 私が口を挟むことではない気がする

 

「死者には肖像権がない」

 

以前書いたが 10代後半東京に何かを求め旅立った友人は1年経ったか経たなかったか…列車飛び込み事故で死んだ

また 友人と呼べる知人女性は 精神的に不安定な親友を見守るため東京の地下鉄で側につきっきりでいたものの 親友はその手を振りほどいて列車に飛び込んだ 身体はバラバラとなり 友人は急停車した列車の周囲を歩き回り 頭を抱えて他の部位を探し回った その時何度も携帯のフラッシュやシャッター音が聞こえたので「撮らないで」と叫びながら千切れた彼女を探したとか…

私の父親は十数年前に70歳手前で他界した もう40年以上は経つ話だが 母の妹である夫が原付バイクに乗っている時 トラックの左折に巻き込まれ頭部を潰され死んだ グシャグシャだったらしいが 検分をしなければならない 妻である妹はパニック状態 その姉である母も事態と妹の状況で動転しているため父が検分した 父は表情を全く変えず 普通に「本人だった」と一言だけ言った その後も平然としていて 飯を食べちゃんと眠った…

 

夕食時にこんな文章を読まされる方にはお詫びするしかないが…

「養老孟子という人物の独自性・特殊性」を考えた時 これがカギなのだと私は考え始めた

彼は「死体」と呼ばず「死者」と呼ぶ つまりは「どんな状態の死者であろうが人間であり 人間の中で『最も正直で素の人間』と言っている」

と…いうことは養老氏にとって「生きている人間 死んでいる人間の境目がほとんど無いのではないか?」という推理が成り立つ

死者はしゃべらない 動き回らない だが「ご臨終です」と医者が死亡宣告をしても 肝臓は生きており移植ができる こうして考えると「死」のラインもまた不明瞭であるという

 

氏にとって現代日本の奇妙さは「生きていることを殊更に重要視し 死んでしまったらただの物体にすぎない」という 死生観にあるという 生は光 死は闇… そうではないと言いたいのだろう

生者としてのヒトの能力 機能 趣向 死者としての様々な正体 どちらもあるということか…

 

私も大学の頃 医大に連れていかれ 献体となった人体骨一式のデッサンをやったことがある 医大の先生に頭部を見せ 男女の区別の仕方や病歴などを聞いたりした そして骸骨にタバコを咥えさせてみると 笑っているように見えた

ロバート・メープルソープ撮影

 

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