kei 「蜘蛛の糸Ⅱ」

2023年3月退職 後の生と死を「絵と言葉」で考えたい…4月からは「画家」か?「肩書を持たないただの人間」として生活していこうと考えています。

「100年の絵」

表題が今私が悩みスランプに陥っている事なんだとわかっています。

老人と海」で有名なアーネスト・ヘミングウェイが部屋にずっと飾り大切にしていた絵があります

 

それはホアン(ジョアン)・ミロの「農園」

この作品はミロ初期の作品で キュビスムの影響を受けている事でもそれは分かります そう考えるとヘミングウェイはミロが画家として大成したからこの絵を大切にしていたわけではなく つまりは「作家の名前」でこの絵が殊更好きだったというのではなく 「農園」と題する この絵そのものを愛したのだと思います。 私も素晴らしい絵だと感じます。

 

だから絵は「無名」であっていいのだと やはり思います。

 

数回前の記事でベラスケスの絵を紹介しました 「イノケンティウス10世」の肖像画を「名画」と私は呼びました

この絵が私の背筋を寒くするのは 内面に肉薄する描写力もさることながら むしろ「人物以外の表現」にベラスケスのスゴさと怖さを感じます 赤い椅子 そして 背景は赤いカーテンですが そのカーテンには「闇」がある

赤の衣装の法王と共にベラスケスは闇も描いている おそらくこれがイノケンティウス10世の本質だと言っている気がします

なので この絵は別に作者がベラスケスでなくても名画です

「絵は趣味の世界。良い絵や悪い絵などどうでも良く 好き好きでいいではないか。」と思われる方もいると思います

私はそれに対し「半分は当たっていると思うが 半分は間違っている」と言うと思います

当たっているという理由は ゴッホアンリ・ルソーそれからフェルメールもそうですが 没後に高い評価を受けますが生きている間はフェルメール(没後歴史から忘れ去られてしまいましたが 当時オランダ デルフトでは画家組合の理事だったので)以外は「ゴミに近い絵」と認識されていたと思います ですから その当時では「正当に評価を受けられない場合がある」ことになります

そして半分間違っている という理由はヘミングウェイがミロの絵を大切にしたように 良い絵は1世紀を経ても愛され続けることを思えば「絶対的に良い絵」というのも存在し それは画家の名前よりも 作品そのものが良いのだと思います

カイム(ハイム)・スーティンというフォービズム(野獣派)に属すると言われている画家がいます

「皮を剥がれた牛」

 

読まれている皆さんが この絵が美しいと感じられるかどうかは別として 私は「名画」だと感じます 熱と力 色彩 筆遣い どれをとっても圧倒的です

なのでこの絵は100年 200年と残り続けると思います

200年後の人々が 作者の名前を忘れ去っても…

 

ですが今の世界は

「作り手が本物だから100万円 ニセモノなので5000円」

真贋問題は絵画につきものですが どこか異常です

 

私は誰かに10年壁面に貼ってもらえる作品を描けるでしょうか

頭の痛い話です

 

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