kei 「蜘蛛の糸Ⅱ」

2023年3月退職 後の生と死を「絵と言葉」で考えたい…4月からは「画家」か?「肩書を持たないただの人間」として生活していこうと考えています。

「修」

おさむ。という名前のひともいるかも… 寺山修司も「修」の字が入っている

「修学旅行」ってのもある 本当に学業を修めたのかどうかは別として。

 

「おしゃかさま」のことを思い出していて 今際の際に「怠ることなく修行せよ」と言ったとか…

なぜか 私はこれが「本当に最後の言葉 完結した言葉」のように思えてなりません

修行し続ける というのは未完成だから。でも完成することがないので これが臨界点かと感じます

坂本龍一の死の数か月前のピアノを聴きました

透明で 無心で 柔らい 温かい そんな気持ちを感じさせてもらいました

寺山修司からは

「『希望』をもつようになったらお終いだよ」と教わりました

これは修業とは別の意味ですが 希望とは未来に起こること つまり未来に期待しているわけですが それは宝くじを買う心理と同様のモノ 今の自分をホンモノ 今の自分を肯定できていないから「希望」を持つ だからそんなもの抱え込んでいるヤツは終わってる。と言いたいのでしょう。

重い腎臓病を抱えながら どんどん命の火が小さくなるのを覚悟しながら 精力的に働き続けて48歳で燃え尽きた寺山修司。 死の間際には「希望」をもっていたのではないかという気がします

絵師「葛飾北斎」は90歳にして「あと5年あれば本物の画家になれる」と云って死にました
歴史上 世界で5本の指に入る画家だろうこの画家は 最後まで修めようとしていました

それは 坂本にしろ寺山にしろ北斎にしろ「修行し続ける」という希望

修行と言うとなんか お坊様のやることだと思いがちですが 私は違うと思います

ボクサーがボクサーをやめて スパーリングをやらなくなっても 弟子を育てる とかファイティングスピリッツは失わない だから修行=「修めを続けている」こともあるでしょう

当然道を見失うこともあるし 違った世界に足を踏み入れることもあるでしょう

けれど 修め続けること=未完を自覚し追いかけ続けることは 幸福であり 大人でも子どもでもない 人間の心を保ち続けることだと思っています

私は絵を追いかけ続けなければなりません 描いていない時も 別なことをしてる時も

 

どんなことでも いいんだと思います

「愛し続ける」「走り続ける」「日記を書き続ける」 

「修」に優劣などあるわけがありませんし その人らしければいいのだと。

 

以前載せましたが 修め続けた男の最後のピアノ


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