kei 「蜘蛛の糸Ⅱ」

2023年3月退職 後の生と死を「絵と言葉」で考えたい…4月からは「画家」か?「肩書を持たないただの人間」として生活していこうと考えています。

「希望を持つようになったらおしまいだよ」寺山修二

2021年01月15日「蜘蛛の糸」で書いた記事 4年以上続いているので何を書いたか忘れている

自分はこんなことを書いていたんだなぁ…と思う

 

この随筆家・歌人・劇作家も私が高校生の頃から大好きな人だった。率直で叙情的で反骨的で
20歳ごろ読んだ フランスの詩人「A.ランボー」と似た匂いがする
あしたのジョー」の主題歌の作詞は寺山修司
重い腎臓の病を抱え それを覚悟しながら無理に精力的に活動し 48歳の短い生涯を終えた
私は寺山が死んだと知った時 とても寂しい気分におそわれた

 

「希望を持つようになったらおしまいだよ」

表題の言葉は彼の随筆「幸福論」に記された言葉だ なぜなのか・・・

 

世の中の多くのサラリーマンたちは、現在を「世を忍ぶ仮の姿」だと捉え、”本当の自分は他にいるはずだ”という根拠のない希望を胸に秘めている。そして彼らが定年まで勤め上げたあとに「こんな人生を送るはずではなかった、これは本当の俺ではない」と泣き叫ぶ姿を想像する。
寺山はこのことに対し以下のように答えてる。

「『希望』を際立出せるために、今日の先端と明日との間に境界線を設ける者に「幸福」を論じることなどできない。」

しかるに 今日の自分をありのままに引き受けることのできない者は、一生「幸福」を感じ取ることができない。

 

なので私流に寺山修司の言葉を考えると


「希望」というものが「現状の自己の否定」を起因としているなら それは手の届かない「絵に描いた餅」で「希望のままで終わりを告げることになる。」 現在のありのままの自分を引き受けてこそ希望に繋がる可能性があり 幸福も「今」感じる以外にはなく 未来に託すものではない。 
ということなのだろうと思う。(後略)

 

と大体こんなことを2年前に載せた

 

今付け加えることがあるとすれば 

寺山修司「絶望」と「希望」は大して違いがない。と言っているのだと思う

どちらも 感情であり 言葉であり 概念に過ぎない

そんなモノに振り回されて人は生きているわけではないのだろうと思う

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