kei 「蜘蛛の糸Ⅱ」

2023年3月退職 後の生と死を「絵と言葉」で考えたい…4月からは「画家」か?「肩書を持たないただの人間」として生活していこうと考えています。

「ティファニーで朝食を」

少し考えると ヘンな題名である 映画と小説は随分違うようだが…

ティファニーはニューヨークにデーンと店を構えた「一流宝石店」

だのに「なんで そこで(その店の前で)朝食をとっているのか?」

映画はマトモに観ていないが 主人公「ホリー」は金持ち狙いの「娼婦」であり ティファニーの前でクロワッサンを食べながら「いつか金持ちになって弟とメキシコに行く」ことを夢見ており 拾った捨て猫は「ちゃんとした飼い主か見つかったら 名前をもらって」と猫に呼び掛けており 名無しであることがわかる その割にはホリーにエラくなついており それはホリー自身と捨て猫は 同一であることを暗示しているわけだ…

そんなところに「売れない小説家」が同じアパートの住人としてやってくる ホリーは 小説家のところまで響く 落ち着かない やかましいパーティを開く 狙いは「イケメン」ではなく「金持ちでありさえすればいい」という露骨さ マフィアのボスなどヤバイ男も引き入れてしまうなど パーティでの広範な知人関係とは裏腹に 寂しい夜には一人ぼっちで捨て猫を抱きしめる。 折に触れて「貧乏小説家」とだけは 素顔で関係を築くようになり 後に短編が売れるようになり「金持ち」にまでは至れないながらも ホリーの動向や心を汲み取る優しさで接し 最後の最後で結ばれる。という話だったかな?

 

それと併せて「Z世代」のことや「ミレニアム世代」のことなど チョコチョコ調べてる

 

「Z世代」とは1990年以降に生まれ いわゆる「インターネット環境」が幼い頃から整備されていた そんな世代だが このことが一体どういう意味を持つのかボンヤリ考える 「情報の氾濫」は「好きな生き方の選択」にも繋がるが 下手をすると「『片や匿名』という 人格や生き方に2面性」をも生み出しかねない危うい世代という気もし 「パパ活」とか… まるでホリーのように生きようとする女性も増えたことだろう 1950年代後半のアメリカは売春・パパ活で一攫千金を狙うことができる「ガリガリの金満至上主義社会」だった それも含めて American Dreamなのかも知れない

現代の日本に似た様相が見受けられ 「頂き女子りりちゃん」は入れあげているホストに数千万の金を貢ぎ続け そうするために「結婚するよ詐欺」をし続けた しまいにゃそれをマニュアル化し 動画配信でも「頂こう」としたわけだが 判決は9年の懲役 という存外に重いものとなり 金を巻き上げたホストは「勝ち組」となったわけだ…

多分 りりちゃんとホリーは そんなに違いがあったわけではないのだろう

唯一違っていたのが「縁を持った男」 

方や「非情の金巻き上げマシン」 方や「懐の深い愛ある男」 2人共 1人街角で野良猫を抱きしめ雨の中に立っていた…そんなイメージも浮かぶ

りりちゃんの場合「本当に愛情を向けてくれる男に巡り合えなかったのか 巻き上げた3人の男を単に『どうでもいいただの金づる』としか見れなかったのか」

ここでホリーと比較分析してもなぁ…

 

ただ「運」とか「縁」という いわく形容しがたい何かが明暗を分けたのは確かで それは「大願成就」とかお守りを持っていたかどうかの違いなのか それとも決定的な何かが違うのか ワカンナイ。

ワカンナイけれど ホリーは「ティファニー宝石店の前でクロワッサンを食べることが日課」だったことが 題名そのままに「違い」であったのかも知れないと思う

 

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