kei 「蜘蛛の糸Ⅱ」

2023年3月退職 後の生と死を「絵と言葉」で考えたい…4月からは「画家」か?「肩書を持たないただの人間」として生活していこうと考えています。

「とりあえず生き とりあえず死んでみる」

義理の息子の大学での苦労話を聞くのは私にも学びになる

「中学8年生か?」とか夫婦で話し合っているとか…

それに対する私の感想は 大方「とりあえず」で行動しているからでは?というものだった

1990年以降生まれを「Z世代」だとか 198?年以降は「ミレニアム世代」だとか呼ばれているらしいが このようなヘンテコな名前が生じる元は「そう名付けた者と そう名付けられた者の合意があったから」なのだろう

世界に一つだけの花」という 当たり前すぎてあり得ない題名と同じで「世界に同一の生命体はあり得ない」

でなければDNA鑑定など意味をなさなくなる …というように「〇〇世代」という名付けに対し 反作用的心理も働いているのだけれど「該当者達が同意した」という理由から「Z世代なる人々」について再考すると 表題になってしまった。

Z世代はゲーム世代である。それもネットを介したゲーム世代であり それは私がドラゴンクエストⅠ・Ⅱ・Ⅲに夢中になったゲームとは全く異質のもので「メタバース(仮想空間)」により近づいたものだろう なので「ゲームというよりメタバース」と理解したほうが妥当で 極端に考えれば「現実と仮想の2つの世界を往復しながら もしくはそれらの混在の中で生きていることになる」

これは平安時代時の貴族が 夜御簾をたくし上げて見た「月」への想い とは随分違う 「随分」というのは重複も幾分あるからだが 同様のモノではないのだろう 1000年前の人類は貴族だろうが平民だろうが 平均寿命も知らないし 流行り病でいつ死ぬかもわからないし 寝殿を焼かれ 拉致されて敵の妻にされることもある「明日が見えない環境」で生きていた

ところが現代は「科学 統計 予測 医療の世界」 誰も80歳まで生きると言っていないのに「人生100年時代」とか非常識なことを 政府がプロパガンダとして用いている時代である

このように「予測が立つ」せいで「何でもかんでも『とりあえず人間』に変えてしまう」

 

「とりあえず」という言葉の意味をもっと深く掘り下げれば 「人の為す全てのことは『とりあえず』であり それを『実験』と呼ぶ」という見方もあると思うが…

 

「実験」は命題と検証という意識がはたらいているので 「とりあえず」ほど漫然としているのとは違う気がする 大好きな「ジョージ・マロリー」のように1920年という バカバカしいほど早い時期 装備も全然整わない頃に エベレストに挑戦したのは「とりあえず」とは呼べない バカの挑戦

仮想空間内では 何度死のうが蘇る

 

だが人間の脳は「現実世界と仮想空間」の峻別がキチンとできているか?と言えば怪しい

これは絵を描く者としてよくわかる

まぁ。 スマホを弄りながら授業に出るのもいい

とりあえず講義室に入り寝てしまうのも悪くはない

だけれど「とりあえず死んでみる」というのだけは オススメできない

これだけは とりあえずはないだろう と思うので

 

kei