kei 「蜘蛛の糸Ⅱ」

2023年3月退職 後の生と死を「絵と言葉」で考えたい…4月からは「画家」か?「肩書を持たないただの人間」として生活していこうと考えています。

「名付け・思い込み」 私「paradoxical」

この歌はジョン・レノンしか作れないし歌えない

晴れてもいない 雨でもない 悲しくもない 愉しげでもない でも 胸に染み透る ポール・マッカートニーがどうしたって「手が届かなかった」名曲だと思う


www.youtube.com   前も紹介したんだけどもw

 

私の近頃の記事は「あんまし」である 

それを自覚しながら「パラドキシカル」なことを書いている

ただ言葉が氾濫する世界で 私は私なりに生きなきゃ。と思った時 表題のようなことを思い浮かべる

バンクシーの枝のない樹木の後ろに 葉の緑を模して 壁に緑色がぶちまけられた壁画は残り続けるだろう なぜなら「芸術だから」

売れば十億は下らないかもしれない……ただ それは芸術と名付け そう思い込んでいるからに過ぎず 一方の見方では「タチの悪い落書き」でしかない

こんなことは1世紀以上前からマルセル・デュシャンが 無審査美術展に男性用便器に女の名前のサインを書いて出品しようとしたことで 「芸術か否か」の論争はとっくの昔に終わっている

けれど現代社会は「現代芸術」に追従できず ただ振り回され バンクシーの落書きを「世論に同調し」芸術だと思い込んでいる

また朝5:30に外に出た この時の時間は6時に近く空が明るくなってきている 公園では海の側にいくつかの休憩所があり 上面が平 四角い歪な櫃のような琉球大理石のベンチがこうして並んでいる ここに座って海を見る者 遊ぶ者 波の音に耳を立てる者 涙を流す者 長さは2m程度なので仰向けに寝て空を見るのにもちょうどいい

これを「ベンチ」と人々は判断しそのように名付けたが  もしバンクシー独自のサインがあり 一筆でも描き込まれていたらそれは「芸術作品」に変貌する 人の思い込みとはそんなものだ

「教育」と名付けりゃ教育というわけでもないし 「愛情」と名付けてもそうでないものがゴロゴロ転がっている

以前の記事で書いた「岩石爺さん」を内緒で撮った

ベンチにじゃなく ヒッソリと海岸の縁に座り 微動だにしない爺さん しかし撮るのが15分遅すぎた この人は殆ど暗闇の頃から海を見るのだ 私は爺さんが好きなんだと思う

 

現代日本は「下らない」 古い言葉で言えば「ダサい」

「公園の時計」 実用と美的センスを兼ね備えているので「デザイン」と言えるが

どっちつかずの駄作である 衝突のケガに配慮してか土台が丸い 統一性もセンスも感じられない代物 こんなんなら置くな。と思う

街中を歩けば 店舗 看板 その他諸々は この時計と同様 「名付けと思い込み」の中で作られ存在しているに過ぎない

 

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