どこかに失くしてしまったのか しかたなく古本で注文したこの本
聖母マリアの「処女懐胎」を物語ってはいない アンドレ・ブルトンとポール・エリュアールという フランスを代表する「詩人」が 「狂気の彼岸」を目指し船出し そこにたどり着くプロセスみたいなもの…あり得ないことを象徴して「処女懐胎」と名付けたのではなかろうか…
出版された時点でも一部割愛されたとのことで この本が「いかに狂っているか」「言葉というモノをどれほど破壊しようとしているか」を読み取ることができる
…といっても こちらも読んでいて頭がヘンになる。
この2人の共著は「実験」だった
「オートマティズム」という 理性と感情が混濁した状態 でなければどちらでもない状態で 頭に浮かんだ言葉をオートマティックに ただ書き連ねている 和訳されたことでイカレているのか 理性と感情をかき乱される言葉の羅列である
この影響を受け 日本の多くの芸術家の師とも言える 詩人「瀧口修造」もオートマティズムを用いて「実験室における太陽氏への公開状」を書いた こちらは太陽という「絶対者」への挑戦であり 見続けると目が焼けてしまうような 脳内核融合をしているように挑戦的で 「強烈」さは感じたものの 読後「熱」が体の中を巡った記憶がある
しかし「処女懐胎」の方は 「ダダイズムと狂気」で綴られている分 爽快感も熱もない 20代の頃 読後ショックを受けたため 今だに言葉の断片が胸に突き刺さっている
「君はなにもすることがない」
と人間の行為の無意味さを散々投げかけた後
何もできないならば「いっそlange(おくるみ=赤子を包む布)のなかの赤子を殺せ」 と言っており 長い長い詩の最後の言葉は
「死ぬまで 君は何もすることがない」
…である
常識や倫理までぶっ壊したこの詩 夢野久作の「ドグラ・マグラ」より「危険な書」だろうと思うが 今考えると合点のいくこともある
例えば1000年程度前は 「神への供物として赤子や幼児を殺し 湖に落とす」という行為を当たり前にやっていた それを現代の先進国の法や常識に照らし合わせ「殺人罪」として裁くのは「逆に愚か」だ 橋を建造すれば人柱 王が死ねば 死後も仕える数多の殉死者を作ったのが「人間」である
だから「第三者の死よりも 長年共に暮らした犬や猫の死の方が精神的にダメージを受ける」し 世界で今起きている「残酷」に対しても存外に鈍感だというのが「大抵の人間の実相」なのではないかと思う
これらを全て包含し「人間は元々狂っている」「狂っていながら生きている」という あり得ない「処女懐胎」の産物であると 2人の詩人は語っているのではないかと思う
現在はノーカット版が販売されているが オススメはしない
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