kei 「蜘蛛の糸Ⅱ」

2023年3月退職 後の生と死を「絵と言葉」で考えたい…4月からは「画家」か?「肩書を持たないただの人間」として生活していこうと考えています。

「自殺」 立花隆-シーシュポスの神話-

(昨年5月に載せた記事読み返し 忘れぬため また載せることにした)

 

カミュ著「シーシュポスの神話」は私も読んだはずなんですが この下りは覚えていません 「不条理」について深い考察をしていた随筆だったことは覚えているのですが… 立花隆の言葉を読んでいて岐路に立つような気持ちになることがあります 今回の場合は「若者の自殺」について 記事を以下に引用すると

 

実は自殺は、哲学における中心的な問題の1つです。実存主義の作家として有名なカミュは『シーシュポスの神話』という哲学的エッセイの冒頭で、こう書いています。「真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学の根本問題に答えることなのである」(『シーシュポスの神話』清水徹新潮文庫)。うん、そうだと思いました。大学時代のはじめ、しばらく実存主義に熱中したのは、これがきっかけでした。

人はみないつか自分の死に一人で向き合わなければならない。「自分の死は自分で死ななければならない」。実存主義が繰り返し問うたのが、自殺の是非を含む、自分の死との向き合い方でした。この問いは今の若い人にとっても切実なものではないでしょうか。

――若者(15~34歳)の死因トップが自殺なのは先進国で唯一、日本だけです。

立花:誤解を招いてしまうかもしれませんが、僕は必ずしも自殺がいけないことだとは考えていません。何十年も前ですが、もの書きになってはじめの頃(著作2冊)、子供の自殺が大きな社会的問題になりました。その頃、僕は、ある県の教育委員会に呼ばれて、学校の先生や親たちの前で、講演をしたことがあるんです。常識的にそういう場では、子供が自殺しないためにどうすべきなのかという「ベキ論」を語るものだと思います。講演を依頼した人もおそらくベキ論を期待していたはずですが、僕は最初に「子供が自殺をするのはいけないことじゃない」と言いました。

 子供時代から青年時代を通じて、自殺したいと一度も思ったことがない人はいないんじゃないでしょうか。少なくとも心の中で自殺を考えたことがない人がいたら、その人の成長過程に何か欠落があったといえるのではないか。普通の人間が普通に育っていけば、どこかの段階で死にたいと考える。それはむしろ人間の健全な精神的成長の一階梯なのではないか。そんな話をしました。
 僕は今でも、子供が自殺したいと真剣に考えて実行に移すことはありえることだし、それが絶対ダメだとはいい切れないと思っています。カミュじゃないけど、自殺の是非は人間が若いときに一度は最も真剣に考察すべき命題の1つです。
 こういう言説が子供や若者に勧められることはほとんどありませんが、ないわけではありません。たとえば寺山修司の評論集『死者の書』(土曜美術社、1974年)に、「青少年のための自殺学入門」という章があって、これが面白いんです。少年時代の寺山は「自殺機械をつくることに熱中していた」らしく、彼の考案した自殺機械をいくつか紹介しています。たとえば、「2羽のニワトリ式自殺機」は、「心臓に照準をあわせて、弾をこめた猟銃を設置し、その引き金を2羽のニワトリの足にヒモで結んでおく。2羽のニワトリは私の頭上の砂袋に止まっているのだが、袋に穴があいているので砂がこぼれて、だんだん足許が不安定になってくると、本能的に下へとびおりる。そのときに足に結んだヒモが引っ張られて引き金がひかれ、私は射殺されるというものである」。他にも、「上海リル式浴槽自殺機」、「ねじ式自殺樽」「脱穀機型脳天振動自殺機」などを発明しています。唐十郎はこの書を寺山の最高傑作と言っています。唐も若いときに自殺を真剣に考えた若者の1人だったからだと思います。

 人はいずれ死ぬのだから、死期を自分で早めてもいいじゃないかと主張する人に対して、ダメだという必要はない。「死にたいのなら死んでみればいい。だけど、やり直せないよ」といえば充分だと思っています。寺山修司のこの本を渡して、こういう死に方もあるぞ、と教えて、失敗がないようによくよく考えろといえばいい。それで、実際に自殺機械を工作の時間に作ってみろと呼びかける。そんな指導があっても悪くないと思っています。
 余談ながら、寺山修司とは文春にいた頃、わりと親しくしたんです。寺山が演劇集団「天井桟敷」をつくる直前で、なにしろ僕の最初の本の帯を書いてくれたのは寺山なんです。文春を辞めたとき、彼が「俺のとこへ来い」と誘ってくれました。そのときそれを受けていれば、まったく違う人生を送っていたと思います。
 自殺、安楽死脳死など、生と死に関する問題は1つの問題群として捉えるべきで、それはその人の死生観と切り分けられない問題なのです。どの問題を考えるにしても、結局、自己決定権がある場合は、その人の自己決定に従うしかないだろうし、神あるいは運命に決定権がある場合には、それに従うよりないことだろうと思います。

(略) 

 -死後の世界についてー

「語り得ぬものについては沈黙せねばならぬ」

死後の世界はまさに語り得ぬものです。それが語りたい対象であるのはたしかですが、沈黙しなければなりません。

 

いのちの電話」とは随分異なった観点 そして国の命令によって命の取り合いをする戦争…
私も「若い命を自ら失ってはいけない」と どこか固定観念を持っていた その考えが 逆に若者を失う理由にもなるのかも知れないと考え直した 何よりウクライナ兵となり 今戦っている若者に向かって 知たり顔で「命の大切さ」を説くのは愚行だろう だから立花が正しいと思った

 平和な社会で「いのちの電話」とは一体何なんだ? 

 安易に「生きるべき」と電話越しに伝えるなら そこに落とし穴が在りはすまいか…

「イジメ」と言われているモノの中には 明白に「傷害」「脅迫」という刑事的な罪に問われる場合があり それが動機となった自殺は 立花の言う自殺ではない気がする…
なので「自殺」という 行為もしくは形で 「一括りにしてしまうことの危険性」も理解した
  …ただし 立花であれば「同じ」と答えるかも知れない 辛い話だが

シーシュポス:ゼウスが河神アソポスの娘アイギナを誘拐したとき、シーシュポスは娘を探す父親にアイギナの行方を教えた。そのためシーシュポスはゼウスの怒りを買い、強制的に冥府に送られる決定が下された。ところがシーシュポスは策略を用いて冥府の神々を欺き、地上に生還した。こうした神々に対する傲慢な行いによって、シーシュポスは冥府で岩を坂の上に押し上げるという刑罰を永遠に繰り返しているとされる。 

 

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