kei 「蜘蛛の糸Ⅱ」

2023年3月退職 後の生と死を「絵と言葉」で考えたい…4月からは「画家」か?「肩書を持たないただの人間」として生活していこうと考えています。

ニールス・ボーアはやっぱりスゴイ

量子力学の生みの親ニールス・ボーア この記事を読んで笑いながら納得してしまいました。

「芸術」とかいうヤツも全く同じ。

 

天才科学者と二流科学者の違いは? 偉大なアイデアは狂気をはらむワケ  

 

十分にイカれているか

 

ヴォルフガング・パウリのキャリアにとって極めて重要な瞬間が訪れた。この量子物理学の学術発表がうまくいけば、キャリアの飛躍が待っている。うまくいかなければ、自分の存在は忘れ去られるだろう。コロンビア大学の広大な講堂を埋める著名な学者勢がどう反応するかが心配だった。パウリは自分の案が一見いかれた発想であることをわかっていたからだ。
パウリが発表を終えた後、ノーベル賞物理学者のニールス・ボーアが示した反応が、歴史に刻まれることとなる。ボーアはパウリにこう言った。

「君の仮説はいかれている、という点でみんなの意見が一致すると思う。だが、もしかすると正しいかも、と思えるくらい十分にいかれているかと言われたら、意見が分かれるだろう」

ボーアのとがった考え方が表れた言葉だ。ボーアは筋の通ったよいアイデアを求めてはいなかった。あまりにも新しすぎて一見いかれている発想にしか関心がなかった。ボーアは20世紀を代表する革新的な物理学者だ。二流の科学者を二流たらしめる理由をよく理解していた。すばらしいアイデアは直感に反するうえ、すでに確立された考え方という権威に刃向かうものなので、一見ひどく馬鹿げて見えるのだ。

ボーアにとっては仮説がただいかれているだけでは不十分だった。あり得ないくらい、いかれていなければ。科学、ビジネス、もしくは芸術界でトップを走る人間は、新しすぎて馬鹿馬鹿しく見えるアイデアを恐れはしない。それがトップでいられる理由なのだ。

奇妙なダンスが始まった。パウリとボーアが口論しながら、講堂のステージ上でぐるぐると歩き回っていた。パウリがなぜ自分の仮説が十分にいかれているかを説明したところ、ボーアも前に出てきて、なぜ十分ではないかを反論したのだ。

現代物理学のふたりの巨人は、パウリのアイデアが十分に論理的か、筋が通っているか、一貫性があるかではなく、十分にいかれているかどうかを議論していた。ボーアに言わせれば、その仮説には「偉大な物理学の神聖なる狂気」がないとのことだった。

これは芸術、音楽、ビジネス、その他何にでも通じることで、偉大なアイデアは神聖なる狂気をはらむのだという。このふたりくらいのレベルになれば、どの科学者もみんな飛び抜けて聡明であり、差はほとんどない。でもパウリをはじめ大勢の科学者は、自身のいかれた考えで満足していた。ボーアも聡明な科学者のひとりだったが、そのなかでも特に抜きん出ていたのは、ありえないくらいいかれたアイデアを探し求めていたからだ、というのがこのエピソードからわかる。

 


1  いま目の前にある仕事や作品を見て自分に問いかけよう。「ボーアはこれを、十分いかれていると言うだろうか?」「神聖なる狂気をはらんでいるだろうか?」

 

2  分別のある人間からの分別のあるアドバイスを聞くと、分別のあるものができあがる。だが、世界を大きく前進させ、変貌させるのは、いかれたアイデアを持ついかれた人間だ。大勢の人があなたの考えを気に入ったら、それは筋が通った論理的なものだから。つまり、あなたはひどい間違いを犯している。多数派に挑みかかるようなアイデアを出すべきだ。

 

仰るとおり…

kei