2021年01月15日記事加筆
この随筆家・歌人・劇作家も私が高校生の頃から大好きな人だった。率直で抒情的で反骨的で
20歳ごろ読んだ フランスの詩人「A.ランボー」と似た匂いがする
「あしたのジョー」の主題歌の作詞は寺山修司だ
重い腎臓の病を抱え それを覚悟しながら無理に精力的に活動し 48歳の短い生涯を終えた
私は寺山が死んだと知った時 とても寂しい気分におそわれた
表題の言葉は彼の随筆「幸福論」に記された言葉だ なぜなのか・・・
世の中の多くのサラリーマンたちは、現在を「世を忍ぶ仮の姿」だと捉え、”本当の自分は他にいるはずだ”という根拠のない希望を胸に秘めている。そして彼らが定年まで勤めあげたあとに「こんな人生を送るはずではなかった、これは本当の俺ではない」と泣き叫ぶ姿を想像する。
寺山はこのことに対し以下のように答えてる。
「『希望』を際立出せるために、今日の先端と明日との間に境界線を設ける者に「幸福」を論じることなどできない。」と
しかるに 今日の自分をありのままに引き受けることのできない者は、一生「幸福」を感じ取ることができない。
私なりに寺山修司の言葉を考えると
「希望」というものが「現状の自己の否定」を起因としているならば それは手の届かない「絵に描いた餅」であるか「希望の抱擁状態完結」という夢想的ロマンチシズムだということになろう 現在のありのままの自分を引き受けてこそ希望に繋がる可能性があり 幸福も「今」この瞬間に感じる以外にはなく 未来に託すものではない。
ということなのだろうと思う。
そうなんだろう。その証左として 国の借金は無責任に増え続け その負債を未来の人々に押し付けている それもひっくるめて未来に対し「希望」と呼んでいるわけだから これほど迷惑な希望は無い。
先ごろ「ひろゆき氏」が また余計なことを口にして「炎上商法」めいたことをしている
「いい年をして『自分探しの旅』とかいう人」は「オムツが取れていない」「そんなものは高校・大学で終わるもの」「人生の迷子?」とか言い放ち 結びとして「自分は探すものでなく変えていくもの」と 幾分寺山の言葉とオーバーラップしている感じもするが 何故か寺山の言葉は染み透るのに ひろゆき氏の言葉は「しゃべりすぎ」「挑発的で癇に障る」感じがするのも ご当人がそうなることを知っていながらやっていることだとして…それをメディアが拾い上げ広めているという事は 寺山の頃より「社会とか世論の方が歪んでいる」と感じなくもない
「探す」も「変える」も 単なる「言葉遊び」じゃね?
主張でも何でもない
kei