kei 「蜘蛛の糸Ⅱ」

2023年3月退職 後の生と死を「絵と言葉」で考えたい…4月からは「画家」か?「肩書を持たないただの人間」として生活していこうと考えています。

ヴァージニア・ウルフ「直立人と横臥人」

2022年02月05日記事

今考えていることとTVの番組が不思議にも符合することがある 正しく今 その番組をやっているが 全部は観なくてもいいと思った 私の場合は直感は画像でやってくることが多い それがどこから来るのか 何故出てくるのかはその時は分からない 分からないけれど「今か今の自分」に関係しているのだろうと思う
私はこの絵を思い出していた

19世紀のイギリス画家 ジョン・エヴァレット・ミレー作「オフィーリア」

この絵は今後 さらに評価が上がるだろうと思った 理由は「非常に現代的」だから。
女は浅い水に仰向けに寝ている 手を小さく広げ目は虚ろ 水面に色とりどりの花が撒かれているところを見ると死者なのだろう けれども肌の色は冷たい水とは対照的に温もりと生を感じる

以前 スマホニュースで若い女性の水着・下着写真が呆れる程載っている と書いた それからコロナで職を失い故郷にも戻れず やる方なく「パパ活」で生計を立てることになった女性の話を読んだ それからコロナウィルスの現代・未来の話 コロナ鬱の話 世界の話 日本の話 ともかくゴチャ混ぜにして読んでいたら この絵が瞼に出てきた
下着姿で形の良いバストを強調しながら クリっと目を見開いている女性は「現代の本当はオフィーリア」ではないかと思った(オフィーリアは「ハムレット」で狂死したヒロイン)
何故この絵が奇妙で強烈なインパクトを与えるのか 同じイギリスでミレーと同時代を生きた作家 ヴァージニア・ウルフ(Virginia Woolf, 1882年1月25日 - 1941年3月28日)の言葉でわかったと思った
随筆『病気になるということ』には「直立人」(健康な人)と「横臥人」(病で寝ている人)という表現が出てくる これがTVのトーク番組で取り上げられたのだが 「病気になること」という彼女の随筆がいかに深く 今でこそ意味を持つ重要な名著であることを知った

これを観るまでは 私はまだ「自分の靴の中の小石」について考えていた 

眼前の大きな山を見続けることは今の状況では良い事じゃない と思ったし 自分の身近にある小さな問題 即ち「石」を取り除くことが大切かと言えばそういうわけでもない気もして 靴の中から摘まみ上げた石を見詰めることに案外意味があるかも知れないと思ったりもした…(※前回の記事との関連なので ここでは意味不明かと。)

けれどヴァージニア・ウルフの言葉でそれは氷解した

直立人が横臥人のところに見舞いに訪れる もうその時から2人の「立場も思考も感覚も違う」と彼女は言う 病んでいるか否かは当然として 憐れむ立場と憐れみの対象 そしてなにより「見えるものが違う」 入院した人々は「横臥人」となり ここ2年で増加した
「オフィーリア」のインパクトは彼女の視点にあるのだとわかった  ”空を見ている”

ヴァージニア・ウルフは言う 横臥人になって「見える光景が変わり初めてわかることがある」と 天井を見つめたり窓から見える眺望 花瓶に刺さったバラの花弁の一枚一枚 それは今までとは異なる世界に見える 世界とは本来こうであったのか・・・正岡子規の「病床六尺」などもこれに通じる

私たちがニュースを見 世界を語る時 コロナウィルスを論じる時 大方「直立人」の思考ではないか?

もうそれだけで「傲慢」がどこかに潜んでおり 世界を正しく見れているのか 自分自身を疑ってしまった…

ヴァージニア・ウルフが非常に鋭い人であったことは彼女の遺した言葉でも分かる
『女は何世紀もの間、男を本来の二倍の姿に映し出す魔法の魅惑的な力を持つ姿見として用いられてきた。』

kei