kei 「蜘蛛の糸Ⅱ」

2023年3月退職 後の生と死を「絵と言葉」で考えたい…4月からは「画家」か?「肩書を持たないただの人間」として生活していこうと考えています。

「教師」という名前が大きな誤解を生んでいる

誤解を誤解にしないように と思うので「義務教育段階まではおそらくは”教師”は必要」なんだろうと思います なので ”教師アレルギー”というわけでもありません

 

ただし 義務教育段階を終え 後期中等教育 即ち高校は別だと考えています

 

「教える意識」で生徒と対する先生を否定するわけではありませんが それは生徒を小学生みたいなものだと捉えていることになり しばしば身勝手な押しつけ ヒドイ場合には「洗脳」になるのではないかと危ぶみます

 

生徒は「学ぶ」のであって 「教え」ても意味がない これが今の私の考えで

 

生徒をスポンジに例え 水を「学習」として仮定するなら

ギリギリの状態でもう水を吸い取ることができないスポンジもあるでしょうし

ある一部の部位が乾いていることもあるでしょう

そして「自分のどの部位が乾いているのか自覚できない」ということもあると思います

どちらにせよ 教育は「学ぶ・知る・理解する」といった 主体が最重要であることは当たり前と言えば当たり前…

今公教育では「道徳」に力を入れているようですが ナンセンスだと思います

必要なのは「倫理」なのであって「道徳」ではありません

道徳は「かくあるべし こうしてはならない」といういわゆる外部からの介入であり そのため”正解が存在している”ことになります

対して「倫理」は個人が定め その人の内側にある社会的なルールで 個々人異なっています 大切なのはどちらかと問われれば「倫理」だろう と私は答えると思います

 

いくら外部から規制をかけてもイジメは減るでしょうか? 疑問です

 

そのまえに 子ども一人一人に真剣に悩ませるプロセスが必要です そしてそれは”正解など無く個々人バラバラ”でいいものだと思います

 

だからでしょうか…「教えるということ」「教師」という名前に私は警戒心を抱きます

量子力学のおかげで 一つの考えが今の私を形成しています

 

「直立している人類を真横から写した写真」を宇宙人が持っていたとします

宇宙人は見た通り 人類は「眼が一つ 耳が1つ 手が一本 足が一本」と思うのではないかと考えられ「観測というものは 往々にして誤っている」と考える方がいいと思っています ですから 私が今書いていることもまた一面であるわけで ”正しいとは言えない”ということになります

ですから「正しい」という言葉は よっぽどのことでもない限り口にするのは難しい言葉

あ…また話が逸れてしまいました

 

「学問」とは凄いものです

ある数学者が一生をかけて得た方法が

ある歴史家が代を引き継いで調べた研究結果が 教科書に載っているわけですから…

 

ですが それを吸い取るか吸い取らないかは当人次第 強要すべきものではありません

 

でも…「今は教師の方から様々な生徒に寄り添う時代」とのこと

一体いつまで赤子扱いしたいのやら 今も理不尽に命や自由が奪われる国があるというのに…

 

kei


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いきなりこの曲でも弾いたろかなぁ