kei 「蜘蛛の糸Ⅱ」

2023年3月退職 後の生と死を「絵と言葉」で考えたい…4月からは「画家」か?「肩書を持たないただの人間」として生活していこうと考えています。

「社会障害」

支援学校に長く務めた経験と学習のまとめとして 自分で書こう

「障害」を「障がい」と呼称し柔らかくしても 質的には同義なのでここでは「障害」と呼称するとして 障害には「一次的障害」もしくは「主障害」と呼ばれる障害と 「二次的障害」と呼ばれるものがある

一次的障害とは「目が見えない」「音が聞こえない」「歩けない」等を指し(※ASDADHDを一次障害と医者は診断するが) 二次的障害との区別の仕方の方法は(もう古くなってしまったかもだが)

無人島に一人で放り出された時 その障害がその人にとって不都合かどうか」で 不都合である障害を一次的 不都合とは言えないものを二次的と言えるだろうと思う なので「社会生活する上で当人も周囲も困る」というのが二次的障害と言え

無人島で独り生きていく場合 例えばASD自閉症スペクトラム障害)やADHD注意欠陥多動性障害)は「他者がいないため迷惑がかからない」という点で肢体不自由等の一次的障害とは質としては異なる

20年数年前 教育界では「障害者と非障害者(健常者?)」の垣根を取り去り「インテグレーション教育」「インクルーシブ教育」だの「ノーマライゼーション」だのと言い始め 英国のやり方を模倣し「特別支援教育」という名前まで英語をそっくり和訳し 逆に2者の距離を隔てるようなちぐはぐな事をやり始めた 今まで「養護学校」とか「特殊学級」といわれていたのが「特別支援学校」「特別支援学級」と呼称されるようになり 文字からして「さらに特別扱い」されてしまったわけだ…これでどこがノーマライゼーションなのか?文科省のやることは意味不明

そして「特別支援教育」が始まった時 文科省ASDの子もADHDの子も市町村の学校に通うようになるので 特別支援学級はまず「廃止」を提案し 特別支援学校も徐々に「縮小」すると言い出したが 私を含め現場の教師たちは全く逆の予想をした「特別支援学校の生徒はどんどん増え続ける」と

学校では「異質な子」「手のかかる子」は 教師のリソースを多く消費するという点でコストパフォーマンスがよろしくない なので病院に行ってもらい LD等発達障害ADHD etc…障害者の診断を受ける そのため特別支援学校に転校せざるを得ない生徒がどんどん増えていく 幻想に囚われやすい子は「統合失調障害」ASDともADHDとも言えなければ「適応障害」その他いくらでも「障害」を生み出すことができる そのため特別支援学校はみるみる肥大化し 新設校まで建てているのが現在である

 

これでノーマライゼーション? 笑い話である

そして一次的障害よりも二次的障害によって「子どもを区別し 地域の学校ではなく 遠く離れた特別支援学校に通わせている」ことになる まるで隠すように…

 

近年 生み出され名付けられた障害はここで列挙できないほどあるが それは裏を返せば「他者への恐怖心・警戒心の顕れ」であり 社会全体がそちらに強く傾いているからに他ならない。

障害者 と言えば「個人」を指しているが

「社会が障害化している」というのが実相だと思う

 

会社を3日で止めてしまう理由は「対人関係」だったとする そこには「社会の障害」が潜んではいまいか? ニュースでは 犯罪を犯した者 逸脱した行為をした者 1人を槍玉に挙げて「あーでもない。こーでもない」と騒ぐけれど

騒ぐ本体が「病んでいる」もしくは「二次的障害に侵されている」のかもしれない

大谷翔平という1人の人間に「健全さ」「まともさ」「理想的人間像」を押し付けることなかれ…と思っている

 

う~前回の続きみたいで 批判的文章ですんません。

kei

街路樹に見る「異例の少子化対策」

岸田政権が謳う「異例の少子化対策」の骨子は

基本理念1:若い世代の所得を増やす
若い世代が現在の所得や将来の見通しを持てるようにするため、「賃上げ」などの社会経済対策を推進します。
基本理念2:社会全体の構造・意識を変える
少子化には、社会構造や人々の意識に根差した要因が関与しています。家庭内の育児負担を変え、夫婦が協力して子育てできる社会を作るため、企業や男性、地域社会、高齢者、独身者などが参加する必要があります。
基本理念3:全ての子育て世帯を切れ目なく支援する
親の就業形態に関わらず、どのような家庭状況にあっても、ライフステージに沿って切れ目なく支援を行います。子育て支援制度を見直し、伴走型支援・プッシュ型支援を進めます。
岸田政権は、少子化問題に先頭に立ち、全力で取り組んでいくことを表明しています。

伴走型とかプッシュ型支援ってなんなのか 調べりゃわかるけれども 逆に調べない方が「大雑把」に捉えることができる 大雑把は悪い事じゃない 絵で言えば「骨組み」であり「イメージ全体」に相当するもので 「ディテール(細部)に神は宿る」とはいえ 大雑把的見方も重要だと思う

岸田政権の「異例の少子化対策」を大雑把に捉えた場合「都市型」であるという印象が浮かび上がってくる 基本理念1と2にその様相が見て取れ やる前から「方向性として間違っている」と私には見える 首相当人及び自民党がそれを分かってやろうとしているならば「名ばかり先行した『無駄対策』」

そう思う理由は「地方の活性化」に一言も触れていず 私には地方都市を核とした活性化が少子化対策の重要な一つのカギになると感じているからだが 20~30年後の日本を想像すれば 総人口が減少する中で「人口増加」のトップ3は「東京」「大阪」「名古屋」でそれ以外の都市は現状維持が精いっぱい 中都市では減少することになる

更にその理由は「収入格差」だ 東京で暮らすには家賃等カネはかかるが 収入も地方に比べて格段に高い 非正規雇用でなければさらに著しい 地方の農村部では高齢者が大半を占め 鉄道は廃線となり バス運行になり替わって 益々不便になっていく… 3大都市では益々便利で個人生活をするにも打ってつけ それ以外の地域では逆の様相を呈する どちらにせよ「大都市では産み育てるのに高額な資金と空間がない」「地方では若者の大都市への流入」等によって 子を作る理由は失われていく…

なので

少子化対策以前に都市計画の時点から日本は間違っていた」気がする

 

沖縄は米軍基地 出戻り労働者が多い 子どもが増える 地価が上がって行っているなど例外的地域だが それでも「都市化」という点では 他の都市と同様「奇妙なことをしていることを自覚できなくなっている」

アパートを下りたすぐそばの道路には「福木(ふくぎ)」という街路樹が植わっている

この木の根や幹 それから葉まで染料として用いることができ まるでカナリア軍団のように 白いTシャツを真っ黄色に染めることができる有用な木であるけれど…

足元 植わっている場所を確かめると コンクリートで埋め尽くされている 移植した上に 更にコンクリートで固めてしまうとは…この木を大切にし 育てる気が毛頭ないことが分かる 沖縄は台風が来る 風速50m/秒程度でこの木は ポッキリ折れるか根ごと倒れるしかない

なぜ樹にこんな酷なことをするのか? 二酸化炭素を吸収するためではない 単なる「景観」のためである 人とは何と奢り高ぶった生物だろう。コンクリートの脇で生えている「雑草こそが人間」により近い生物であったはずだろうに… それを取り違えて都市を作ってしまった 

「都市で育つ子等に自然を教えることは難しい」

 

だが 自然はドンドン地方を覆い尽くす 農地を 牧草地を 草や樹が覆い尽くしていくだろう 必然的に野生動物の領域は広がり 鉄を腐食させ コンクリートを粉々に砕くだろう

「子と自然」は不可分であったはずなのだ…

 

kei

※とは書いものの…「未来については わからないことだらけ」というのが本音。郡部ではIT化が一層進み 少数の人々で大規模農業を営むことになるだろう このようにITやロボットの可能性を考えると 人口問題は先の予想とは全く異なるモノになるだろう

「肉體」

「肉体」と読む古い言葉 だが「肉体」と書いてしまうと「肉体ではなく言葉になってしまう」 そういうジレンマに陥り続けている自分

錯乱も 突飛な行動も「今はないだろう」と思いながら 違和感だけは消えぬまま

何とかしたいと感じている

 

「肉體から離れてしまった言葉」

これが戦争をしていない先進諸国の病

反して銃弾・砲弾が飛び交う場所では「肉體」なしでは成り立たない

どちらが病み・狂っているのか

どちらでもない在り方があるのか そんなことを考える

言葉は貨幣を生み出し「仮想通貨」という「無形の孫」まで生み出した

経済という名のもとに 益々人が用いる言葉は肉體を失っていく…

 

生まれ出でた赤子が発する「産声」 誰しも初めはそうだった

「嬉しい 悲しい 優しい 愛しい 苦しい 誠実 嘘つき」全て「言葉」であってみれば 私はそれを信じることができないでいる

 

私とブログを読み合う人の中に 旅をする人 50代でリタイアしながら確かなものを探している人 「茶の道」を行く人 「縄跳び」について本気で取り組んでいる人 PCではなくイラストをノートに直接描く人…そんな人々の生き方を学び 垣間見ながら 自身について考える

 

「肉體から遊離した絵」  これだけは描くまい

 

今のところはそれだけ思っている

 

kei

「萩本欽ちゃんに教えてもらった」

水原一平の想像以上の悪辣さがマスメディアに上がってきた これは「遅きに失すぎ」

同人は「犍陀多」だと以前から言っていたので 眼中にない記事だった

だが一つ「萩本欽一氏のコメント」は格別 私は「然り」とこうべを垂れた

ほぼ全文を載せる

萩本欽一 大谷に“欽言”「一平ちゃんはよくやった」

コメディアンの萩本欽一(82)が14日、元通訳の水原一平容疑者によって自身の銀行口座から1600万ドル(約24億5000万円)以上を不正送金されたドジャース大谷翔平(29)へエールを送った。

 欽ちゃんはこの日、神奈川県伊勢原市の龍池山高岳院で桜の植樹に参加。自身と、20年に他界した妻・澄子さんの名前がついた2本の夫婦桜「欽ちゃん桜」「スミちゃん桜」など計5本を植えた。植樹後の取材時に大谷について聞かれると、「世間では悪い人に出会ってしまったと言われているが、運という意味で言うと、一平ちゃんはよくやった」と、ドキッとするような言葉で話を切り出した。

 欽ちゃんは人生において運を重視しており、「良いことがあれば、必ずその分だけ悪いことが来る」と信じてきた。「よくやった」という言葉も、その考え方から出たもの。「人生はプラスとマイナスでチャラになる。あんなに高いお金で契約して、すてきな奥さんももらい、2つの幸せをつかむと、翔平君の体に具合の悪い部分が出てしまうかもしれない。だから野球には関係ないところで悪い部分が出てほしいと思っていたら、それが出てくれた」。真意を丁寧に説明した。

 さらに、運が及ぼす大谷の成績上昇についても予告。「今年は本塁打は30本、打率は2割8分だなと思っていた。でも、事件が出てきたことで本塁打は40本、打率も3割になった」と自身の予測を上方修正した。

 

最後に成績の上方修正するところなんざ 「優しい人」だなぁ…とつくづく思う

萩本欽一氏の言っていることが「本質」だと私は思う

「生きていれば いいこと 悪いことが必ずある」と言っているのではない

「生は どちらも引き受けてこその『生』」だと 自然な事を言ってるに過ぎない

ゴーダマの思想然り イエスの生涯然り…

キリスト教がなぜヨーロッパで広まったか。弟子たちが命がけで布教したからだが イエスが囚われ磔刑となるとき「全員一目散に逃げた」つまり イエスを裏切った

裏切ったからこそ生き延び布教できたことを考えれば「個々の良いこと 悪いこと」に囚われるのはナンセンスなのだろう

生きていれば 身を切られる程の苦しみや痛みや悲しみは必ずやってくる そのように感じるかどうかはその人次第だろうけれど…

小学5年だったか6年だったか…欽ちゃんが地元のホールに来ていて 私は席を外してカメラで欽ちゃんを撮った その時欽ちゃんに声をかけられ 舞台に上げられ「イジラれた」

私はウィットもユーモアのセンスもない小僧で 呆然としてたけれど 欽ちゃんは 私と一つ絡むたびに 両手で抱えられぬほどの お菓子やらおつまみをくれたのだった…あの時も「自然体」の不思議な人だった気がする

萩本欽一氏のこのコメント読んだとき 私は懐かしさと共に改めて尊敬の念を持った

kei

 

「梅-梅コーヒーには意味がある」

今 自宅のコーヒーはインスタントを除けば5種類ある

一番旨い「松」は以前書いた「銀河コーヒー トラジャ・セレベス」

二番目に旨い「竹」は「銀河コーヒー イルガチェフ・モカ

好みによっては松と竹はひっくり返るかも知れないが トラジャ・セレベスの「香りの高さ+雑味の無さ」は 私にとっては一番

しかしこれら2種類だけ飲み続けていると コーヒー代だけで月2万とか3万になってしまい 貧乏には不釣り合い。…ということもあるが 何より「慣れてしまう」ことに危惧を抱くからに他ならない な。水原一平君

なので梅レベルで三種類設けることにした

梅ー松 第三位は「key トラジャブレンド

180gとコッソリ20g減らされており 値段も800円台(挽き)から1200円台(豆)と その時その時でバラツキがあり「古くなると安売りすんのか?」という疑念が持たれる豆 また「挽き売り」と「豆売り」の種類があり なぜか一手間かかる「挽き売り」の方が安いというヘンな豆 しか~し 飲んでみるとわかるのだが「同じ豆なのに味が違い 豆売りの方が絶対に旨い」 怪しい豆である ただ豆の場合「香り」という点で 梅の中では上位

四位は以前紹介した「無印良品オーガニックブレンド

値もなぜか下がり999円となった。400g入りでこの値段 「不味くはない」のでこのランク

そして 値段が変わってから配達が5月になってしまったので 急遽別の豆を購入することになった 学生の頃から 殆ど「旨いと感じたことがないUCC」を

梅-梅 五位は 150g 498円だったっけ?「ベリーのような味わい」というのにツラれて2袋購入

裏を見ても「果実感5 スイート5」と表示されている だが袋を開けた瞬間ガッカリ 豆がダークローストで黒光りしている。これでは香りもスイートもあるわけがなく ビター5のただの豆 JAROに訴えたい気分にさせられるほど 果実の香りも全く無く 味は「職場でガブ飲みする『味わうことがないコーヒー』」のレベルに近い

でもこれらを全部飲むのには意味がある

 

あんまし旨くないコーヒーを飲むからこそ 旨いコーヒーはより旨い どんなモノ どんなことにも「馴れる」と何も感じなくなってしまう

 

宮崎駿の「君たちはどう生きるか」で 戦時中タバコがないので たしか「イタドリの葉」でタバコを作り吸っている爺さんがいて それを見た婆さんが「タバコなんかもってるんか!よこせ~!」というシーンがあったけれど この気持ち よくわかるなぁ… タバコはタバコの葉でしかタバコの味はしないし 戦時中 大豆を炒ってコーヒーを作った人もいたとか… その時「味はさておき」なんだと思う 「吸えた。飲めた。」という実感だけが残り 安らぎを与えてくれる

 

またいつか 酒は自家製のドブロク タバコはどこかの葉っぱを乾燥・発酵させたニセモノ 大豆のコーヒー を飲む時が来る

ニーチェはそれを「永劫回帰」 グルグル時代は回ると言っているのかも知れない

 

kei

「身近なことしか感じないボケ=平和ボケ?」

昨日 中東イランとイスラエルが互いにミサイルを撃ち合い始めた

発端は「シリアにあるイラン領事館」にイスラエルがミサイルを撃ち込み 対抗する武装組織(≒テロ組織)の親玉を殺したことによる

とあるインフルエンサーは「第5次中東戦争になる危険性がある」と言い それを水原一平容疑者の事件等々よりも小さく扱っていることに「日本は平和ボケしてんのかい!」と驚いていた

中東は「世界の火薬庫」である

宗教も絡み 一度始まってしまうと「倍返し 3倍返し」の報復をし合うので手が付けられなくなる また巻き込まれる国々 自ら火中に飛び込む国が増え 最悪の場合「第5次中東戦争」となる

…だから何なの? と思う人は「エネルギーや物価が更に高騰する」ことを怖れているかもしれないし 実際にそうなるだろうが それが一番の大事じゃない

根柢の部分は「ロシア・中国の独裁専制政治や他国への侵略行為」に端を発した「世界規模のぐらつき」と思われ 今 世界の全てが地震でグラグラしているようなものなのだろう…「世界大戦」も非現実的な話ではなくなる

日本で言えば「中国から(台湾も狙っているが)『尖閣諸島』をアメリカが守ってくれるか?」という国際問題として浮上してくるかもしれない

今のアメリカは 中国・ロシアとの戦争を懸念材料として「中立ヅラ」もしくは「当事国同士で何とかしろ」という立ち位置である

 

アメリカが世界の警察」として他国の戦争・紛争に介入する時代は過ぎた

 

世界で今起きている各所の戦争が「対岸の火事」であるわけがないし 「己の生活だけに注意を払いながら生きれば大丈夫」というのは思い込み…と思われる

kei

「百折不撓」?

 

先ごろ54歳で亡くなった「曙」

同期でライバルだった貴乃花 追悼の言葉を以下のように述べている

「ご家族の皆さまとご遺族に哀悼の意を表したいと思います。ハワイから来日し今日に至るまで、日本の文化を感じて幾多の苦労があったかと思います。百折不撓(ふとう)の人生観だったと思いますが、これからは身を楽にして安らかに」

言葉はその人の精神・心から生まれる。

「曙」という人物を深く理解しないまま「百折不撓」という大ナタのような四文字熟語を使うところに 「貴乃花」という人物の人なりの頑なさと 無知を感じる

 

「百折不撓」とは百回挫折しても 初心を貫き通す。という意味である なので「非常に強い精神力と努力」が必須であるのは当然で 他者に向かってこんな言葉を使うモノじゃないと私は思う

貴乃花には娘と「靴屋兼画家」の息子がいる 息子は「百折不撓」「百挫不折」「不撓不屈」と彼に連発されながら育ったため「委縮して育ってしまった」

アクションペインティングかストリートアートか何風かわからないが「未熟で『弱い絵』」

 

その理由は父親の呪いの言葉にある

子どもの心を縛ってはいけない それには良否はあんまり関係ないと思う

「良いという価値観」で固定化された言葉はむしろ「逃げ場がない」という点で怖ろしい それは子にとって「強い呪詛」となる

 

花田優画伯 父親貴乃花をぶっ飛ばす絵を描いてほしい。「絵」に親など関係ない

 

kei