kei 「蜘蛛の糸Ⅱ」

2023年3月退職 後の生と死を「絵と言葉」で考えたい…4月からは「画家」か?「肩書を持たないただの人間」として生活していこうと考えています。

「生きて旧知の人と出会うことには意味がある」

昨日夜9時過ぎ 倒れ込むように寝て 午前1:30に目が覚め 新作を作り始めた

銀色のアルミテープを全面にはり 描いた図をアルコールで数か所削り落とし

銀をむき出しにするだけでなく 上から絵からはみ出るプラ板を貼り付けた

本当のアイディアは プラ板をごくわずか浮かせ プラ板の上からも描いて

「2重の絵」の制作だったが 朝方睡魔がやってきて 企みと違う中途作品を展示。

 

どうしてこんな不自然な絵を作ろうとするのは明白

10年後は「巧みに そっくりに描く」という技術はAIに軽く超えられ 「上手に描ける」ことに殆ど価値がないと見越しているからだ

だからわたしは上のような奇妙な技法を考えたり 「~のように見える」という見る人によって理解が異なる不明瞭な絵を描く それが人の顔に見えようが 山に見えようが 海に見えようが どうでもよく むしろ「感じ取る側に 人間としての想像力と個性がある」…なので描き手ではなく鑑賞者が人間らしい。という理屈

 

今日は奇しくも 古い友人が訪ねてくることが多く

20年前 30年前の友人が来てくれた 20年前に出会った人とは共にネパール観光(?)した仲で その日に泊まるホテルも 明日行く場所も決めないズボラ極まる男4人の旅だった 3人は同じ職場だったので 休日でもない日に3人同時に休むとは大迷惑と女子職員にこっぴどく叱られ お返しと土産として「すごくヘンな味のする不味い飴」を配り さらに顰蹙を買った記憶がある 30年会っていなかった白髪の男性は 知り合った当時は20代 バレーボールの得意な優しい人だったが 遠い名護から訪ねてきてくれた 2名とも白髪頭で名前を聞き返さなければ 思い出すことができなかった

誰でも歳をとるのは当たり前 自分も老いているのに それを忘れていた

 

他にも兄の縁者の来訪と差し入れがあったり 同僚がきてくれたりして 絵そっちのけで話に花を咲かせたが 「展覧会」がまさか 長い間会えなかった人と再会できる機会だとは知らなかった

その人々と再会できる機会があるとすれば 偶然街や道で出会うくらいだろうが 可能性は著しく低い

でなければ「葬式」くらいしかないのだろう でも葬式は「再会」じゃない

話を聞くことも 伝えることもできない 交流もない

 

だから 生きているうちに会いたい人と会うのがいいと思う

それを痛感した一日だった

 

kei