kei 「蜘蛛の糸Ⅱ」

2023年3月退職 後の生と死を「絵と言葉」で考えたい…4月からは「画家」か?「肩書を持たないただの人間」として生活していこうと考えています。

「光景という鏡」

おおよそだが マトモに生きる方法というのは「その時その時を生きる事」だと思っている

サルトルの云う「在る 持つ 為す」という考えは「人はその時々自由意志で進むことができる」というのがベースにあると思うので

自分が不自由だと感じることも 自由だと感じることも その人の「自由に過ぎない」

 

「木漏れ日」という言葉は英語には無いらしい

特別に感じることがないから 該当する言葉がないのか…

 

外に出てこのような光景を見る そうして写真を撮ったわけだけれど

これが自分が病室の中での生活しなければならない状況になるとか

仰臥の状態で この風景を見たら どう感じるのだろうと思った

正岡子規の「病牀六尺」が頭をかすめる

こんな想像は「サルトルの人間像」からは外れているのかも知れない

けれど いつかやってくる

 

その時「自由・不自由」「幸・不幸」について考えるのか 何を考えるのか 何を感じるのかはわからないが

心を抜きにしてものを見ることが出来ない人間にとって それは「鏡」と同じ役目を果たすだろう

いい光景も イヤな光景も 好きな人も 嫌いな人も どんな光景も 目を用いて見るという行為は 実は「自分の心を鏡として映す」役割を果たす

 

相手がどうとか 誰がどうとか 世界がどうとか… もし死を前にして目を開けば きっと異なる鏡となって映るだろう

 

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