kei 「蜘蛛の糸Ⅱ」

2023年3月退職 後の生と死を「絵と言葉」で考えたい…4月からは「画家」か?「肩書を持たないただの人間」として生活していこうと考えています。

「明日の新聞」

恐怖新聞」という名前の漫画があったっけ…えらく怖い漫画だった記憶がある

実際 新聞はとっているが もう止めようかと思っている

…というのは関係のない話 ただ「明日の新聞」という題名の絵を描いてみたいと思った

私も今はアルバイトの身分なんだけれど 教材やら各月の授業で何をするか「プランニング」をしなければならない 定職についていた頃は それがもっと多岐にわたり ゴチャゴチャだった 

なので「プランニングばかりの今日」とは 「自分にとっての明日の新聞」如きもの

このことについて真面目に考えれば「必要欠くべからずの思考」となるだろうが

別の側面から 動物として観れば「読めない未来を無理に読もうとする愚行」である

先進国の人類は 明日が何曜日で 明日は何があって…というスケジュールを持っている それを筆記したら スケジュール帳が その人にとっての明日の新聞かも知れない…

私もスケジュール帳を買ったりしたこともあったが 4月中盤から全く使わなくなるので 40歳を超えた頃には買うのを止めた

 

極端に考えれば「直下型の大地震が自分の身に起こる」とは 明日の新聞には絶対書かれていない「明日交通事故で死ぬ」「12月31日に10億円の宝くじが当たる」ことも…

つまり想定と想像の範囲の外は 明日の新聞には記載されていない

けれど 生きているのは今日であり 今この瞬間

あと5年も経てば 紙面を開くことなど無いだろうし

「明日の新聞」が想定内の事しか記載されていないのなら 「今日の新聞」もさして重要でもないのかもしれない

 

奇妙な生き物ではないか? 先進国の人々は

明日の新聞ばかり作り続けて 「今を生きていない」のだ

kei