kei 「蜘蛛の糸Ⅱ」

2023年3月退職 後の生と死を「絵と言葉」で考えたい…4月からは「画家」か?「肩書を持たないただの人間」として生活していこうと考えています。

1983年刊「東京漂流」藤原新也

2023年5月記事

 

23歳で訪れたインドを皮切りに、世界中を旅して人間の生と死や社会のありようを見つめてきた写真家の藤原新也 氏の著作を読んだとき 人生の契機となることがよくあった
職もなく生きる気力もなく 内容や職種や赴任国など全く知らぬまま「青年海外協力隊」を受けた
その時 私は2冊の藤原の本を東京に向かう列車で読んでいた 飛行機は乗る気分じゃなかった
一冊は「インド放浪」 これはバングラデシュ生活に随分と役に立った カルチャーショックを受けずに済んだ
もう一冊は「東京漂流」 これは帰国後藤原が書いた厚手の本で
大宅壮一ノンフィクション賞及び日本ノンフィクション賞に推挙されたが、本人の意思により辞退となった。 ま。内容が内容なのでそうなるか…

「血飛沫を あつめて早し最上川 藤原らしいシャレが効いてる

 

事件の内容を引用
「金属バット両親殺害事件」とは、1980年11月29日に神奈川県川崎市で起こった浪人生・一柳展也氏(いちりゅう のぶや)による両親殺害事件となります。
「金属バッド両親殺害事件」のきっかけに関しては、一柳展也が父親のキャッシュカードを無断で使用したことがバレたせいでした。
一柳展也は、父親から盗んだお金を使い映画館やパチンコ店などに入り浸っていたようで、2浪中の身でありながら予備校に月平均7日間しか通っていなかったようです。
1980年11月28日午後11時半頃に、父・一柳幹夫さんより応接間に呼び出された一柳展也は、キャッシュカードを盗んだことを問いただされると素直に認めたものの、当然ながら許しては貰えずに厳しく叱責されることになりました。
母・一柳千恵子さんからも予備校をサボっていることを注意されるなど、四面楚歌状態になってしまった一柳展也でしたが、反省はしていなかったらしく、自室に戻るとウイスキーをラッパ飲みして憂さを晴らしていました。
そんな息子の不貞腐れた態度を知った幹夫さんは、さらに激高し「明日にでも家から出て行け!」と怒鳴りつけた後、近所の居酒屋でヤケ酒をあおっていたようですね。
その後の一柳展也は、1980年11月29日未明頃に、酔いの勢いも手伝い両親の殺害を決意。金属バットを手に寝室に忍び込んで、寝息を立てる両親を次々に撲殺したと言われております。
殺害現場となった寝室では、父親の頭蓋骨がパックリと割れて天井まで血しぶきが上がっていた他、母親の脳漿が辺り一面に飛び散るなど、かなり凄惨な状況になっていたようです。
両親殺害後の一柳展也に関しては、お風呂場で返り血を洗い流した後は、強盗が押し入ったように見せかけるために、金属バットや犯行時来ていた服を隠したり、寝室を荒らすなどアリバイ工作を試みたそうですね。
その後、朝が明けてから第一発見者を装い警察通報することとなった一柳展也でしたが、事件の一報を聞きつけ自宅にやって来た親戚に疑われ、自白に追い込まれてしまったとか。
自白後の一柳展也については、親戚より容赦なく警察に通報されてしまい、逮捕の憂き目となっております。
「金属バット両親殺害事件」犯人・一柳展也の生い立ちと経歴
一柳展也、インテリ家系に生まれていた
一柳展也は、父方の祖父が一橋大学卒の銀行マンだった他、父・幹夫さんの兄弟たちも筑波大学慶應義塾大学を卒業しているインテリの家系だったようですね。
そのため、1960年に一柳家の次男として生まれて来た一柳展也も幼少期からエリートとなることを期待されて育つことになりました。
幼少期は社宅住まいだった一柳展也は、地元渋谷区の公立小学校を卒業後は港区にある区立青山中学校に越境入学しています。
当時の区立青山中学校は、東京有数の進学校であった都立日比谷高校の登竜門的な学校扱いされており、都内から越境入学する秀才たちが多かった背景がありました。
そんな名門中学に入学した一柳展也に関しては、部活にも入らず勉強に打ち込んだ成果もあり、一般的にみるとかなり優秀な成績だったようですが、目標とする早稲田大学高等学院には一歩届かない学力でもあったそうです。
そのため、家庭教師を3人付けて高校受験に挑むという臨戦態勢になった一柳展也でしたが、ストレスからか母親の財布から1万円を盗んで叱られたこともあったとか。
中学の卒業文集にて「一体3年間、俺は何していたのだろうか…」と嘆くほど受験に青春を捧げていた一柳展也ですが、目標であった早稲田大学高等学院慶応義塾高校には合格出来なかったそうですね。
とはいえ、同じ都内の名門進学校である海城高校に合格して進学するなど、3年間の努力の末に得た物も小さくはありませんでした。
しかしながら、本人的には志望校より1ランク下の高校にしか合格出来なかった挫折感は大きかったようで、海城高校入学後は無気力感に囚われて学校のテストでも赤点を連発してしまうことになりました。
当然ながら、両親から叱られることとなった一柳展也でしたが、それで心が改まることもなく、逆に1週間ほど家出をして反抗を企てたこともありました。
ちなみに、家出中の一柳展也は、都内に住む祖母のアパートでテレビを見たり漫画を読んだりする程度で、非行に走ることはなかったようですね。
高校受験で燃え尽きてしまった結果、勉強面ではさっぱり冴えなかった海城高校時代の一柳展也でしたが、クラスの仲間内で野球チームを結成して草野球に打ち込むなど、私生活では楽しい思い出もあったようですね。
とはいえ、3年間勉強を怠けたツケは大きく、現役として挑んだ大学受験は全滅という結果が待っていました。
1979年に一柳展也が受験した大学一覧
早稲田大学(法学部・商学部
上智大学
中央大学
明治学院大学
成城大学
その後、予備校に通いながら再度大学受験に挑戦した一柳展也ですが、高校時代から気持ちを切り替えることが出来なかったため、勉強に打ち込むことが出来ずに再度の全滅の憂き目となります。
あまりに不甲斐ない息子の姿に失望した父・幹夫さんは、「大学進学だけが人生じゃないから、就職したら良い」と突き放した言葉を口走ってもいたようですね。
父親の予想外の台詞に、大きく動揺した一柳展也でしたが、この時は母・千恵子さんと長男が助け舟を出してくれたため、2度目の浪人生活続行が決まったとか
浪人生活2年目は、早稲田大学の専科コースのある予備校に通っていたという一柳展也でしたが、勉強に打ち込めない日々は相変わらずだったそうで、前期テストの結果は予備校内でも最下位クラスだったとか。
この頃になると、長引く浪人生活にすっかり疲弊してしまった一柳展也は、自衛隊員や板前になろうかと真剣に悩んでいた節もありましたが、一歩を踏み出す勇気がなく環境を変えることでは出来ませんでした。
その後の一柳展也は、父親から盗んだお金で映画館やパチンコ店に入り浸り、予備校をサボるようになって行きます。
とはいえ、この時点での一柳展也は、あくまで自分の人生について悩み自暴自棄になっていただけであり、両親に対して怨嗟の念などは薄かったため、「金属バット両親殺害事件」は本当に突発的な事故だった言えます。
父親は東大卒のエリート、母親はお嬢様。一柳展也の父・一柳幹夫さんは、事件当時46歳であり「旭硝子」に勤務していたようですね。
インテリ兄弟の中でも特に優秀だった幹夫さんは、東京大学経済学部を卒業しており、大学時代はヨット部の主将も務めていた体育会系の人物でした。
事件当時は東京支店建材担当支店長の地位にあった幹夫さんは、歯切れの良い性格をしていたため、社内でも人望があったと言われております。
一柳展也が高校に進学するタイミングで社宅を出て、神奈川県川崎市にマイホームも建てていた幹夫さんでしたが、亭主関白で身勝手な部分もあったようで、息子が落ちこぼれて以降は妻に辛く当たることが多かったようですね。
一柳展也、母親は山口出身のお嬢様だった
一柳展也の母・一柳千恵子さんに関しては、実家は山口県の造り酒屋だったそうで、事件当時は幹夫さんと同じ46歳でした。
千恵子さんと幹夫さんの馴れ初めについては、1955年頃にお見合い結婚をしたそうですね。
同世代は中卒が当たり前だった戦中世代ながらも短大を卒業しており、毛並みの良いお嬢様だった千恵子さんでしたが、一柳展也が落ちこぼれ始めると、幹夫さんより「あいつの頭が悪いのはお前に似たせいだ!」となじられることもあったとか。
そのため、事件直前には夫婦関係も冷え切っており、幹夫さんから話かけても貰えない状況が続いていたと言われております。
早稲田大卒の兄にコンプレックス。兄は早稲田大学卒のエリートサラリーマンだった
早稲田大学高等学院から早稲田大学理工学部へ進学しており、両親の期待に応え続けた優等生でした。
Aさんに関しては、早稲田大学を卒業後は一部上場企業に就職して実家から離れていたため、「金属バット両親殺害事件」には巻き込まれずに済んだようですね。 
「金属バット両親殺害事件」犯人・一柳展也のその後現在…出所後にインドに永住していた
一柳展也、発達障害も考慮され懲役13年の判決
逮捕後の一柳展也については、拘置所の方で両親殺害を懺悔する日々が続いたようですね。
特に、エリート家庭で何不自由なく育った自分が、戦中戦後の貧しい時代を生き抜いた両親を殺してしまったことに対しては、「これほど悲惨なことはない。まったく俺はどうしょうもない」と苦悩していたとか。
また、逮捕後の精神鑑定において発達障害も見つかるなど、一柳展也に関しては同情すべき要素もありました。
そのため、裁判の方でもそれ相応に情状酌量が認められており、一柳展也には懲役13年の温情判決が下っています。
 前科や非行歴がないこと、被告人は心神喪失または少なくとも心神耗弱だったとは言えないまでも、生まれつきの精神的な発達障害があったことも手伝って、飲酒によって事理弁識能力を相当減弱した中での偶発的な犯行であること、逮捕後は素直に自供していること、真摯な反省と後悔の念があること、更生の可能性などを考慮した上で、懲役13年の判決を言い渡した。   
一柳展也氏、出所後はインドで宗教ボランティアをしています。

 

私は列車内で この本を不思議な気持ちで読んでいました
藤原は 雨戸の締まった一柳家を執拗に何枚も撮っています 何故彼がこの事件に執着したか


答えは明白 「このような事件はいずれ日本で日常茶飯事になる」

理由 「下らない国だから」


藤原の予言は的中し 親族殺人やイジメ等による暴行・脅迫殺人は1990年頃から激増していきました
私はそれを胸に刻んでバングラデシュに旅立ちました

失礼千万だと思うんですが 40年後の今も日本は「下らないまま」だと思います

それは選挙の投票率の異常な低さ=若者の政治への興味・関心のなさにも顕れています

インド農村部 バングラデシュ等の貧困国 さらに環境的に厳しく貧しいアフリカの人々の生活を考えれば そういうことになります

 

そういゃあ 新版になってから表紙変わりましたね 持ってますけど 

藤原流おふざけ度合いが増しているようです

kei