実は精神異常・精神障害の有無によって「死刑か無罪か」についてまだ考えていた
それは「責任能力」という言葉に集約されるわけだが 私はこの論点に納得できなかった
その間「推し子」というアニメについて 犯人が「父親」(ネタバレ)である記事を載せたのは 理由は分からないにしろ 愛し育てる立場の父親が 2人の子の前で母親をメッタ刺しにする という数奇さが「現代の闇」の一部を表現しているように思えたからだった
このアニメは人気が高いので完結するまで放送される気もするが 主に青少年に対し「影響が強い」ように思えてならない 親族殺人は殺人の中で最も多いと言っても 残酷であるには変わりはない
そして「京アニ放火殺人事件」裁判が行われると知った時 一審の判決は「死刑」だと思った
それは「責任能力」に起因しているモノではない 裁判官は「責任能力はあった」としてこの判決を下したわけだが 「正気⇔狂気」の領域は精神科医の判断を基準とした裁判によって正しく判定できるものとは思えず その点で判決理由も十分とは言えない。と考える
そのため翌日犯人は控訴した。「自分が焼死しかけるほど正常ではなかった」と主張するだろう…
けれど 今は「責任能力」に焦点を当てる事自体が もしかしたらナンセンスなのではないかと思い直した
問われるのは「罪の重さと社会的影響」であって 36人もの罪なき人を殺しておいて「精神障害を有していたので無罪」となれば 今後同様の事件が起きた時 「責任能力なし」という判決も下される可能性がある
となれば 非常に大きな罪を犯した という現実とともに
「人間が人間を信用できなくなってしまう社会」が出来上がっていくのではないか? 私は多くの人を殺めた罪と共に「人間不信」という社会的影響も重要だと思う
精神障害を有している人々がこのような事件を引き起こす可能性は 有していない人の可能性と変わらないと私は思う だから「様々な障害」を有している人を蔑視し差別するのは納得できないし 「精神」という見えない部分を取り沙汰して「死刑・無罪」と決めるべきではないと思う 軽微な犯罪なら検討の余地はあると思うが 責任能力云々で罪を問うことは「健常者(イヤな言葉)」と「障害者」を別け隔てる効果をもたらす 重度の知的障害・精神障害を有している年端の行かない子どもであっても 「殺意がない」という点で こんな凶行には及ばない。
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