kei 「蜘蛛の糸Ⅱ」

2023年3月退職 後の生と死を「絵と言葉」で考えたい…4月からは「画家」か?「肩書を持たないただの人間」として生活していこうと考えています。

「フラニーとゾーイー」 J.D.サリンジャー

2020年07月11日記事

サリンジャーは寡作・隠遁者で有名 人生の後半生はほとんど世間に姿を見せなかった
それがたまたま80歳を超えたある日 20代の1人の記者のインタビューに気まぐれに応じ
「生きていた」ことが証明され 全米ニュースになったほどの作家である。

なぜ、ヤンキーのサリンジャーがこのようであるかと言うとユダヤ人の血を引いているとか、色々あるのだろうが・・・要はHSP(ハイリ-・センシティブ・パーソン=生得的に感受性が強くそれが当人の人生に様々な困難と方向性をもたらしやすい)の典型のような人物で 近年そのような「いわゆる非常にデリケートで感受性が強い」人が国を問わず、ほぼ10人に1人はいるであろうといわれている。


表題の「フラニーとゾーイー」もHSP それも非常に強度なHSPである。
サリンジャーの作品群の半分以上は「グラースサーガ」というグラース家の兄弟姉妹の物語が著作の半分以上を占めている。(と思う) 自殺した長男のシーモアをはじめ7,8名だろうか・・・全てHSPかつ頭脳明晰で、フラニーはグラース家の末子の大学生。ゾーイーはすぐ年上の兄で俳優をしている。

作品の内容は読んでいただければわかるが、ほぼ全編フラニーとゾーイーの対話であり、時に激しい口論になり 時にフラニーはパニックを起こす それでもゾーイーはあきらめず精神的にどん底状態のフラニーの心と混ざり合おうとする 1955年11月のある土曜日の午前中から翌週の月曜日にかけての物語で、ほぼ三日間の中に物語が収められている。

この作品に影響を受けた人物として コメディアンの太田光や作家の池澤夏樹がいる
池澤は「アメリカにおいて本当の意味での青春小説を描くことができる特別な作家」とサリンジャーを評している。実際「ライ麦畑でつかまえて」は題名だけは多くの人に知られている青春小説だろう。

ここからは私事だが「ライ麦畑…」もグラースサーガの数冊も全て20代に読み、精神的にも影響を受けたが
この「フラニーとゾーイー」は印象に残る作品
ラニーは容姿端麗の才女だが、恋愛で躓き大学を休むようになる 心が薄いガラス細工で出来ており、東洋思想まで首を突っ込み精神的安定を図らなければいけない程ある意味弱い存在 長男のように自殺をほのめかすことも身内のゾーイーに対してのみ打ち明ける
あらゆる人・物事に絶望しベッドの中に数日籠り続けのフラニー。兄のゾーイーは時に喜劇役者になり、冷徹になり、思想家になり、無責任を演じ、感情的になり、哲学者、宗教者となって必死にフラニーの心を必死で救おうとする。
そのやり取りは「割れる寸前のガラス細工をなんとかしようとする」兄ゾーイーの緊張感と機転、フラニー自身の純粋さ、優しさ、賢さ、哀しさが際立っており、フラニーを説得し続け、やっとの思いでフラニ―の心を救った月曜 ゾーイーは全てのエネルギーを使い果たし フラニーの部屋のドアの裏側でヘタり込む


  「誰かの心を救う」 


これがいかに困難で どれほどのエネルギーと知恵と愛情が必要か この小説は教えてくれる

「宗教に救ってもらう」それもいいだろう だが それではフラニーは救えない

どの宗教も粗すぎるし、我田引水だからか…グラース家の特殊性のためか合わない


「先生の助言で救ってもらう」大半の教師は出来っこない 医者は「薬」を渡すだけ

今も「子どもの心を救うことから遠ざかる教師」を国は、文科省は意図的に量産している

文科省の「道徳」を書いている者に「フラニーとゾーイー」を読んでみたら?と言いたくなる

子どもの心を目の粗いザルで掬ってはならない

 


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