kei 「蜘蛛の糸Ⅱ」

2023年3月退職 後の生と死を「絵と言葉」で考えたい…4月からは「画家」か?「肩書を持たないただの人間」として生活していこうと考えています。

芥川龍之介が怖れた「人同士の親和性」

前回の記事「超立方体」に関する記述が間違っていたので 相変わらず数学はダメ分野だと再認識した次第。 間違うと何を書いても自信がなくなる なのでやはり「正しいこと」は自分は書けず(描けず) 勝手な感想で止めていた方かいいのだろうと思う 今回もそうだ…芥川龍之介という人物を深く理解している人と比べ 私の「芥川龍之介像」は浅い もしくは曲解 または極端なのだろうと思いつつ 私なりの芥川龍之介を考える それは「自己という主観=自我」と「他者」との関係性について まだ考えているというのが理由

 

今の私にとってリアルな人間だと感じるのは 以前載せた W・H・オーデンの詩 「1939年9月1日」で その一部を抜き取れば

  男と女の骨の髄にまで
  染み付いている罪業は
  持ち得ないものを熱望することだ
  普遍的な愛では満足できずに
  自分ひとりだけが愛されることを熱望する

  (中略)

  この世に国家などというものはない
  また孤独な人間というものもない
  飢えは市民にも警察官にも
  わけ隔てなく訪れる
  俺たちはお互いに愛し合わねばならぬのだ

ということになるだろうか… なぜアフリカであるとか南アジアでは人口が増え続け 先進国という国々では 有効な対策を立てない限り減る傾向にあるのか

「働きの担い手として子どもが必要だから」という単純な答だけではない気がする

オーデンの言う通り 「人は愛されることに飢えている」「飢えているから 互いに愛し合わなければならない」…と思うが それを警戒し 怖れた人物が芥川龍之介だと思う 遺作となった「歯車」で 理解し合っていると思い面会した1人の牧師が 1人の女子に恋心を潜ませているのを敏感に感じ取り嫌悪する 芥川はそれを「親和性」と呼び そのものを突っぱねている

なので「自分が信じるのは神ではなく 悪魔だろう」と云い

死神である自分のドッペルゲンガーを度々見る羽目になる

これも以前書いたが「蜘蛛の糸」は「希望の在り方」について説いた作品じゃないと思う 蜘蛛の糸の存在自体が皮肉でありパラドクスで 犍陀多でなくても「誰も糸を伝って上りきることはできない」と云っている気がする 「歯車」の文中で語られる 自作「地獄変」という短編でも その心理を裏付けているのではないか…

 

…とすると 人という生物は「愛を渇望しながら 他者を疑い突き放す心」も「同時に」持ち合わせていることになる 「当たり前だろ?」という声が耳の中で響く

「宗教」と「宗教団体」は全く異なるモノ 

宗教は個の内側にあり芥川も独自の宗教を持っていただろう しかし宗教団体に対しては 芥川はアレルギーに近い感情を持っていたと察する

 

作用があれば反作用が同時に発生する

 

1人の人が 作用の方を見ているか 芥川のように反作用の方を見ているかで 生き方が異なることになる

 

「おひとり様」とは… 誰がそう名付けたのか 蜘蛛の糸のように皮肉と逆説に満ちた言葉だ

 

J.レノンが創ったこの曲にも ユダヤの神が出てくるのだっけ…


www.youtube.com

kei