kei 「蜘蛛の糸Ⅱ」

2023年3月退職 後の生と死を「絵と言葉」で考えたい…4月からは「画家」か?「肩書を持たないただの人間」として生活していこうと考えています。

「振り子」 考える と 想う②

前回の記事は「横尾忠則氏の論」に同意し 私は書いた

けれども 結びに

「考えること」が重要か「想うこと」が重要か…ということではなく  とも書き 実は 横尾氏とは異なる考えだというのが本音かも知れない インスパイアはされたが同意ではない。

数百年前と比べて 現代人は「考える比率が高い」とも言えるけれど 現代人にとって「考えると想うの違い」とは何か を考えるとこの2つは 常に交互に起こることもままあり 何が考えで 何が想いなのか よくわからなくなってくる

ただし「想うことしかしなくなった人」を身内で知っている

それは「3人の自殺した親族」である 1人は叔父 姉である母は言っていた わざわざ本州から里帰りしたのは10人の兄弟姉妹に別れの挨拶をしに来たと 兄弟姉妹は彼が自殺することを口にさえ出して当人と話したらしいが 彼自身の目は「想う目」に変わっており 「考える目」ではなくなっていた だから「自殺するのだろう」と兄弟たちはわかっていた

狂信者も同じように思える 彼等は「考える目をしていない」

 

では「数学者が 科学者が熱中し 計算し考えること」が人間らしいかと言えば そうとも思えないし 「お金大好き人間」も似たようなものだろう

「彼らは想わない」 というより極端であればあるほど「想う人」と様相が似てくる 二極的思考は好きではないが

人の「考える」と「想う」は

振り子時計の振り子とよく似ていると思う

右は「想う」左は「考える」 左右同角度で振り子は振れる

「最も悪しき者は 最も深く考える」これはファンタジーではない ファン・ノイマンというバケモノがいる

芸術家で言えばピカソもそうだろう

最も強い思考と最も強い想いがこの「色のない光景」を生んだ

 

人によって振り子の振れ幅は違う

最後は垂直となって振り子は止まる これは分かり切ったこと

小さく振れれば 考えも 想いも広がらない

だから 生きている証として 振幅をもっと広げなければ…

そして左右どちらか 極端な角度で停止しても 時計は壊れ 終わりを意味するだろう…

横尾氏に対して私はそう答えるだろう

 

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