kei 「蜘蛛の糸Ⅱ」

2023年3月退職 後の生と死を「絵と言葉」で考えたい…4月からは「画家」か?「肩書を持たないただの人間」として生活していこうと考えています。

「考える」と「想う」

御年87歳の横尾忠則氏の記事はなぜか読んでしまう

取り分けて作品が好きというわけでもないのだが 故瀬戸内寂聴との公開往復書簡もよく読んでいた グラフィックデザイナーから画家に転身した人物というのは「稀」で 知名度の高さで言えば横尾氏がその第一人者と言えるだろう

ただ横尾氏の話を読んでいると元々「画家型」ではなかったかと思う

例えば「10代には一切本を読まなかった」と当人は述べている 確か当人は文学賞も獲っていると思うが 本を読まなかった理由を「考える行為をしたくなかった」かららしく 私なりに捉えれば「言語によって限定されること」「AかBかに二者択一的 選択的思考」で生きたくなかったということだろう

それよりも「『想う』ほうが 自由なので自分に合っていた」と述べている

 

創作に携わらない人であれば 何のことやら全く分からない チンプンカンプン話だろうなぁ…

けれど 私にはよくわかる 沖縄では30年働いた 働くことは身体を動かすとともに「考える」ことでもあった だから「想う」という行為を自然と抑圧していたと思う

毎年 おそらく今年も行われている「美術の先生の美術展」というのがある

同僚に勧められて行ってみたものの…落胆して帰ってきた「働きながら創作」することはたしかにタイヘンだろう 私が見た作品群は「展覧会に出すために慌てて描く」という本末転倒をやらかしていた だから出来栄えは生煮えで 迫力に欠く

「想う」という創作の根源を見失った絵…それは見た瞬間わかるものだ

 

「人は考える葦である」とパスカルは言う どうも西洋思想には眉唾なところがある

確かに人は成人ともなれば「考え癖のついた二極思考」の生き物になる だからパスカルは概ね正しいとも言える

だが赤子や幼児 そして横尾氏の年齢ともなれば 人は「想い」で生き 想いで死を迎える 

死の間際 パスカルのように考える者などいない

想いつつ死んでいくのである

「考えること」が重要か「想うこと」が重要か…ということではなく

考えるばかりの人生は 不自由だと思う

 

kei