kei 「蜘蛛の糸Ⅱ」

2023年3月退職 後の生と死を「絵と言葉」で考えたい…4月からは「画家」か?「肩書を持たないただの人間」として生活していこうと考えています。

「一人一人に一つの家」

夜 ウォーキングに出るとアイディアが浮かびやすい これは昔からそうだったし

かのヴェートーベンもそうだったらしいし 多くの人に当てはまるのじゃないかな…

楽家 武満徹の最初の随筆は私にとっては「最重要」の本

大江健三郎の紹介文と共に 武満自身の「序文」が載っている

武満は言う「もうすぐ自分に子どもが生まれる…」それを感じながら カリール・ギブランの「子どもについて」という詩を引用している

あなたの子供は、あなたの子供ではない。
彼等は、人生の希望そのものの息子であり娘である。
彼等は、あなたを通じてくるが、あなたからくるのではない。
彼等は、あなたとともにいるが、あなたには屈しない。
あなたは、彼等に愛情を与えてもいいが、あなたの考えを与えてはいけない。
何となれば、彼等は彼等自身の考えを持っているからだ。
あなたは、彼等のからだを家に入れてもいいが、彼等の心をあなたの家に入れてはいけない。
何故なら、彼等の心は、あなたが訪ねて見ることもできない、
夢のなかでさえ訪ねて見ることもできないあしたの家にすんでいるからだ。
あなたは、彼等のようになろうとしてもいいが、彼等をあなたのようにしてはいけない。
何故なら、
人生はあともどりしなければ、昨日とともにためらいもしないからだ。

 

私は武満の随筆とこの詩を胸に刻み 我が子の出産に立ち会い そのように育ててきた(と思う)勉強しろ。とは一度も言ったことは無いし 我が子が やりたいと言ったことは全て承諾し支援した なぜなら我が子であってもギブランの詩の通り「別の家に住んでいる存在」だからだ

歩きながら「そういえば誰しも 大人も子どもも 富める者も貧しき者も 男も女も 一人一つの家に住んでいる」…と想った

命とか 魂 というのはどうも抽象的でボンヤリしている気がするが

「誰しも一人一つの家の持ち主」であると考えるとスーッと納得できるところがある

今授業をしている高校生一人一人も各々自分の家を持っている

それは 「家族と暮らしている家じゃない」

夫婦や家族が同じ屋根の下暮らしている  …幻想である

 

ギブランの言っていることは何も子どもに限ったことじゃない

 

何かに属し 何かに依存し 誰かと共に暮らすその前に 人は自分の家をもっているべきだ それが家具調度が何もない家でも ボロボロの家でもいい 六畳一間でもいい

自分だけの家を持ってることに意味がある

なんだ「アイデンティティの例え話か?」と言われそうだが その家の様相や その人にとっての大切さ等を思えば 単なる比喩というわけでもない

 

人間は孤独かもしれぬ 一人一つの家を持つ限りは

しかしだからこそ 他者の命を貴ぶことができるし 愛することができる

kei