kei 「蜘蛛の糸Ⅱ」

2023年3月退職 後の生と死を「絵と言葉」で考えたい…4月からは「画家」か?「肩書を持たないただの人間」として生活していこうと考えています。

「M.ハイデガー」余計なことを書いてしまったか…

ハイデガーの思想を理解するのは「難しく」「シビア」であり 「くそ重たい」 そして不十分な理解ではとんでもない曲解が生じる危険性を孕んでおり 理解不十分な私では書くべきではない…という前提で書いている。

ただ 今後の生にハイデガーは避けて通れないことは 随分前からわかっていた

「川のほとり」という 一人息子を失った後 川のほとりで妻を交え 夢に出てきた息子と語り合う物語を「筒井康隆」は書いた

物語の中で 夢を見ている筒井当人が「これは夢」だとわかっている それでも 夢が終わることを恐れてか 息子と対話を長引かせようとするが…

ひとしきり話合った後 息子は笑顔で川のほとりを去っていく 夢の中の妻が問う「あの子 どこにいるのかしらね?」 夫は憮然として答える「どこにもおらん。」妻は目を伏せ涙を流す

なぜ「どこにもおらん。」と夫の筒井は答えたのか…これはハイデガーの影響を受けているからだ 彼は「自分はハイデガー派」と述べでいる

 

ハイデガーは人を「人」とは言わない 「現存在」と呼ぶのだ

その理由は 「誰もが人」という共通性は無いと考えているからで 著書「存在と時間」は時間については描き切れず 尻切れトンボに終わったようだが 察するところ 人=現存在は 何よりも今生きている以上は 個々が一つの恒星であり 惑星と言えるほど 独立しており 異なる時間を生きていることになる 「存在」そのものだとしている

この考えを受容すると「他者からの手助け」「他者の助言」で救われる者は 現存在があるべき「本来性」から逸脱し 「非本来的」な生を生きるため好ましくない。 ということになる

(「本来性」「非本来性」については いつか書こうと思う)

いくら助けられようと 貴重な助言を貰おうと 「現存在」は個として存在しており 決めているのは自分と言う現存在以外あり得ない ということなのだと思う

つまり「現存在」は生きている限り 自己の全ての責任を負い 自分から逃げるという非本来的行動を起こさず 本来的「生」を生き死んでいかなければならないことになる。

ハイデガーは「あの世この世」を排除した キリスト教にも影響を受けているし 後年の哲学者達は「禅」と重複しているという

 

ハイデガーに言わせれば

孤独は 現存在として「当然の姿」であり だからこそ生きていると言える ということなのだろう

存在と時間」は1927年に書かれた この時もう既にヨーロッパは大戦の時代に突入し 彼の母国ドイツは敗戦によって 紙幣が「完全な紙屑」となった イデオロギーどころか 社会全てが転覆した このような時代の中で 彼は「現存在」という ただ一人つの生物の独立性 固有性 主体性を問いたかったのではないかと思う

世人(俗な人?)を彼は「タス・マン」として否定している

 

ハイデガーの思考が私の脳に入り込んでくる

 

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