前回の記事を撤回するわけではない けれどクソ真面目に考えることでもない
では なぜこのような事を考えるのかといえば「自分の都合」なのだと思う
「描くときのヒント」かも…誠に身勝手な立ち位置だ。
「我」か「無我」か… ある時は「我」に執着し ある時は「無我」かもと感じる
「色即是空」かもしれないが「空即是色」と判断してもいいわけで 都合のいい時 どちらかを使い分けているに過ぎない
哲学も同じ ニーチェもハイデガーもサルトルも 傾倒しているわけじゃない
「神」 いてもいいし いなくてもいいと思っている
…とこのように「普段生活している間」は どっちつかずのフラフラ
但し 死の間際に瀕した時 望むと望まざるとに関わらず「答え」を見つけるだろう…と思う それが正しいかどうかはわからないが ✕でも〇でも大差はない
人は生きているから考え 言葉を用い 概念を生み出す ナザレのイエスさんには失敬だが「はじめに言葉(ロゴスの意)ありき」とは思わない
宗教 哲学 概念 言葉 思考全ては「生」無くしてあるわけがない
今日の朝焼け 撮ったのは私だが 光景の中に私はいない
kei