デカルトの「我思う故に我あり」という言葉は 単純に日本語のとおりではない。wikiでは
ラテン語訳のCogito, ergo sum(コーギトー・エルゴー・スム、cogito =我思う、ergo = 故に、sum = 我在り)との標題が有名だが、これは第三者の訳による『真理の探求』で用いられたもので、デカルト自身がこのような表現をしたことはない。 とされている
でもまぁ 大体似たようなことをお釈迦さんも言っているようだし
「最も確からしい哲学の原点」として 数多引用されてきたわけだけれど 私は青年時代からこの言葉が「単に生理的に」嫌いだった
生まれたばかりの赤ん坊や動物が こんな風に考えるわきゃねえだろ。と思う
それよりも「近頃よく見る夢のせい」でデカルトの言葉が怪しいと感じてしまう
昨日の記事にも書いたことだが 自分は若く風貌も違う もちろん未婚なので 可愛いヒップを見ただけで一目惚れしてしまう
瓦礫の中 伝説のラーメン屋を探す夢でも 私は異なる風貌で グループの一名に一目惚れした どちらも邪な夢ではなかった
このような夢は「時間は逆に回らない」ということ 「老化は防げない」という 諦めのような境地から発しているのかと思ったりもするが そのような年齢に達したからこそ
「俺ゃ俺でなくてもいいんじゃねえの?」と思うようになってきた
夢の中の俺は思う でも本当の俺じゃない …何が悪い?
本当の俺は絵をサボっている でも俺じゃなければ絵は関係ない
朝 仕事に出かけようと思うとすれば 「自分が」というより ただそんな風に体が動くからに過ぎない
「我」を客観的かつ徹底的に追及する思考は 「袋小路的思考」ではないか?
人は「我」と前置きせずとも 動くし 感じるし 考える
私は哲学的人間ではない
何も私は私でなくていい
私は子どもでもよく どこの国に生まれてもよく 仙人でもよく 悪魔でもよく 男でなくてもよく 人間でなくてもいい …いや 男でないと 昨日のまん丸ヒップには衝撃を受けなかったから 男の方がいい
「我、思いすぎると自滅あり」ということもある
kei