kei 「蜘蛛の糸Ⅱ」

2023年3月退職 後の生と死を「絵と言葉」で考えたい…4月からは「画家」か?「肩書を持たないただの人間」として生活していこうと考えています。

「我思っていても 我じゃない」

デカルトの「我思う故に我あり」という言葉は 単純に日本語のとおりではない。wikiでは

ラテン語訳のCogito, ergo sum(コーギトー・エルゴー・スム、cogito =我思う、ergo = 故に、sum = 我在り)との標題が有名だが、これは第三者の訳による『真理の探求』で用いられたもので、デカルト自身がこのような表現をしたことはない。 とされている

でもまぁ 大体似たようなことをお釈迦さんも言っているようだし

「最も確からしい哲学の原点」として 数多引用されてきたわけだけれど 私は青年時代からこの言葉が「単に生理的に」嫌いだった

 

生まれたばかりの赤ん坊や動物が こんな風に考えるわきゃねえだろ。と思う  

 

それよりも「近頃よく見る夢のせい」でデカルトの言葉が怪しいと感じてしまう

昨日の記事にも書いたことだが 自分は若く風貌も違う もちろん未婚なので 可愛いヒップを見ただけで一目惚れしてしまう

瓦礫の中 伝説のラーメン屋を探す夢でも 私は異なる風貌で グループの一名に一目惚れした  どちらも邪な夢ではなかった

このような夢は「時間は逆に回らない」ということ 「老化は防げない」という 諦めのような境地から発しているのかと思ったりもするが そのような年齢に達したからこそ

 

「俺ゃ俺でなくてもいいんじゃねえの?」と思うようになってきた

夢の中の俺は思う でも本当の俺じゃない  …何が悪い?

本当の俺は絵をサボっている でも俺じゃなければ絵は関係ない

朝 仕事に出かけようと思うとすれば 「自分が」というより ただそんな風に体が動くからに過ぎない

 

「我」を客観的かつ徹底的に追及する思考は 「袋小路的思考」ではないか? 

人は「我」と前置きせずとも 動くし 感じるし 考える

私は哲学的人間ではない 

何も私は私でなくていい

私は子どもでもよく どこの国に生まれてもよく 仙人でもよく 悪魔でもよく 男でなくてもよく 人間でなくてもいい …いや 男でないと 昨日のまん丸ヒップには衝撃を受けなかったから 男の方がいい 

「我、思いすぎると自滅あり」ということもある

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