kei 「蜘蛛の糸Ⅱ」

2023年3月退職 後の生と死を「絵と言葉」で考えたい…4月からは「画家」か?「肩書を持たないただの人間」として生活していこうと考えています。

「絵から漂うもの」

前回の記事は塾考されていないという点で 載せるモノじゃない

ただ「書くこと」が「描くこと」に繋がる場合もあるのは確かで

今は全く手掛けられていない「絵画」を行うにあたって どのようにリスタートすべきなのか 感じ・考える必要があった

それは至極「個人的なもの」で 私自身以外の人には 誤った 違和感のある ヘンな文章だったかもしれない

ただし 私自身にとっては「鍵」になりそうな思考だと思ったので 忘れぬよう載せたまで…

 

私にとって良い絵とは何か?

それも なんでも描けてしまう絵師 AIに抗い生じる絵でなければ あまり意味は無い

 

そこで気づいたのが「『愛と死の匂い』が要る」ということだった

 

そして前回の結びとして この2つは本来「一体のもの」「1つのもの」だろうと思った

 

私が引き込まれる作品にはそれがある

 

何故なのか もう 言葉では言えない

 

ゴッホの絵の数々 レオナルドの絵の数々 ジャスパー・ジョーンズの作品の数々 ポール・ゴーギャンの絵の数々 マーク・ロスコの絵の数々 手を伸ばしても届かない彼らの絵には それがある 愛と死が混ざり合った1つのものが…

幼子の絵にはそれがない 「生に満ちている」 

大人でも キース・へリングの絵はそちら側の絵「生の絵」

だがそれは 鏡映のようで 版画と版木のような関係性であり だからこそ 響くものがある それもまたいい。

 

これから 「愛と死の混合体」に向かうか 「生そのもの」に向かうかはわからない

ただこれらを抜きには描けない

 

三岸好太郎の遺作「のんびり貝」を思い出す 

31年という短い生涯で 彼はそれをやってのけた

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