kei 「蜘蛛の糸Ⅱ」

2023年3月退職 後の生と死を「絵と言葉」で考えたい…4月からは「画家」か?「肩書を持たないただの人間」として生活していこうと考えています。

「教える」という誤り

まだ描いている途中の絵 さっき夜中の2:30に起きてやり始めました

まだ 海のモノとも山のモノともつかない絵

 

個性的で面白い小学校を作り上げた「校長」の話を記事で読みました

私は教育関係の文書はアレルギー気味なので 斜め読みでしたが

主旨は理解できました「教える」ということと「学ぶ」の本質的な違いが判らず

現代の日本教育の弊害は「教える」という 子どもという人間存在を 物事を知らぬ下位の生き物として 導く必要がある という固定観念である。と言っていました

 

私もそれに全く同意します

 

親が 小学校入学前の我が子に足し算を教えたとします 教えれば理解できるものだと親は思い込みます しかしそれは誤りだと今は感じています 子どもは「数」という海の中で「法則」を見出すから 足し算を覚える それが「学ぶ」ということになるのでしょう 

親はピアノ 水泳 英会話を勧めたり それは後々生きていくために役に立つかもしれません でも…それは機会であり きっかけを作ったにすぎません

 

親や教師ができることはそこまでです

 

ウサイン=ボルトを研究し 全く同じ走り方をしても 9秒7 というタイムは叩き出せないように いくら教わっても 努力しても「個体としては全く異なる」わけですからそのようにならず だからこそ それぞれに「個性」があるのだと 今の私は思います

 

……と。こうして考えると「絵など教えられるわけがない」と思います

それよりも その人個人のやり方を尊重し 背中を押すしかありません

 

「教育」という言葉によって 幾多の間違いを犯した日本教

それがある程度成立するのは義務教育段階まででしょう(義務教育の中でも怪しい学習はたくさんありますが)

 

これは「学び」とは対極にあるほど 全く異なるモノではないかと考えています

 

さて…今日の授業は 集中できるように環境づくりをしたら 放置しようを思います

 

kei