kei 「蜘蛛の糸Ⅱ」

2023年3月退職 後の生と死を「絵と言葉」で考えたい…4月からは「画家」か?「肩書を持たないただの人間」として生活していこうと考えています。

「凶事 吉事」‐イマジネーション‐

絵やら部屋に置けないギターなどを入れる倉庫がどうしても必要になり アパート暮らしの身としては「レンタル倉庫」を借りざるを得ませんでした

その倉庫は偶然にも「佐喜眞美術館」の直ぐ向かいという近さで

沖縄戦の悲・惨・苦は 芥川龍之介の「地獄変」に描かれた世界に通じるものの様に思われました もし沖縄にいらした折 是非見てもらいたいと思います

ただ 私が当該美術館を訪れたのは1度きり 30年以上も住んでいて 

なぜか私はこの絵を再び見たいとは思わないのです

 

もっと端的に言ってしまえば「このような絵を描きたくない」ということでしょうか

 

理由は「悲惨だから」「戦争画だから」という単純なモノではないようで

例えばピカソの「ゲルニカ」と比較して「イマジネーション」が掻き立てられないからだと思います

絵画は作者のイマジネーションを見る者に強いるものではありません

良い作品ほど イマジネーションを拡げさせてくれるものだと思います

佐喜眞美術館の作品群は 私にとっては「前者」の方に見えてしまうのです

 

近頃 私の記事は「陰鬱」の方向に偏っているかもしれません

ですが それはそのまま私の気分というわけでもなく むしろイマジネーションが湧かないので「まいったなぁ…」と感じているのが本音

 

第三次世界大戦が起きるかもしれない 世界規模の核戦争が起こるかもしれない

これはイマジネーション

第三次世界大戦は起きないかもしれない 核戦争もないかもしれない

これもまた 未来の事柄である以上 イマジネーションなのだと思います

 

「自由作品」という課題を与えた瞬間 スマホとにらめっこしながら絵を描き始める若者達 「自由」なのですからそのことに注文を付ける気はありません

ですが 美術にとって最も大切にされるべきは 技術ではなくイマジネーションです

 

イマジネーションにとって「暗い・明るいなど些末な事」

 

日本の教育は 教え込むのではなく もっと子どものイマジネーションを育てるべきでした 正否・是非もない世界を拡げてあげるべきでした

凶事と吉事 2者はさして違いがないのかも知れません

 

kei

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さて…この件に「イマジネーション」はどう関わっているのでしょう やはり正否・是非を高等学校でも教えるべきだったでしょうか?