kei 「蜘蛛の糸Ⅱ」

2023年3月退職 後の生と死を「絵と言葉」で考えたい…4月からは「画家」か?「肩書を持たないただの人間」として生活していこうと考えています。

「個」の群れ

2021年02月18日記事加筆

奇妙な光景である。だがこの機械をつけている者にとっては大マジである。

この画像はオウム真理教教徒が修行に使用していたヘッドギアで「PSI」と呼ばれていたそうだ
その意味は『Perfect Salvation Initiation 完全救済イニシエーション』であり その頭文字

概要
このヘッドギアはオウム真理教科学技術庁大臣村井秀夫の発明品で、教団の説明によると、「ヘッドギアには電極が付いており、麻原彰晃の脳波を再現した数ボルトの電流を流すことで、麻原の脳波と自分の脳波を同調させるもの」といううたい文句であった。以前は電極を直接頭に貼り付けて電流を流していた。麻原自身もPSIがないと気が狂いそうになるといって度々着用しており、逮捕時も使用していた。
レンタルは月額10万円、購入の場合100万円という多額の布施が必要であった。これを着用した信者は一目でオウム真理教信者とわかる姿であり、教団のカルト性を端的に示す象徴にもなった。この点は麻原も気にしておりPSIを付けた姿を撮らないようにと命令していた。
後継のAlephでも改良して使用していた。アーレフ時代の規約では、「旧団体代表の脳波によるマインドコントロール装置であるという誤解を受けているPSIについては、実際は、同人の脳波そのものではなく、それを加工しており、特定人物の意思に従わせるマインドコントロールの目的も機能も存在しない」「脳波を活用した瞑想促進・健康機器」と定義している。
使用方法
頭の地肌に何らかの薬品を塗りつけ、ヘッドギアを着用、電源を入れると、額にピリピリと電流が流れて来る。
ワークをしているときや在家信者が使用する携帯用がよく知られているが、それとは別に出家信者が寝る際やひとりの時に使用するものはコンピューターから直接信号を取っていた。このPSIはAC電源から電流を取り、接続されたコンピューターの画面に麻原の脳波が映し出されていた。信者はその脳波形から、次に強い電流がくることが予測できるため、非常に強い恐怖に襲われる。強いときは爆発するような痛みがあり、眼前に閃光が散る。独房修行においてはヘッドギアを苦痛のあまりとってしまう信者も続発したため、そうさせないよう手錠がかけられた。PSIの使用によって多くの信者の視力が落ちた。一方で「装着するだけで修行が進められる」ということでPSIを好む信者もいた。

粗悪品も多く林郁夫は頭蓋が焼け焦げ、頭部が禿げ上がったとのこと…ここら辺でもういい

奇妙な器具であることは写真でも見て取れるが 巷にはその人それぞれにPSIじみたものが在るような気がする。
イヤフォン スマホを電車通勤の最中聴き、見続ける人々 大都市の地下鉄に乗った時 それは6人に4人程の割合だったように見えた これが現代のPSIか?
なので上記の写真を見て「笑えるような、笑えないような」気分になる

 

現代の人々はアフリカゾウや水牛やカイギュウやイルカやシャチの群れとは違う 群れているのは単に空間的状況であって「個」であることには変わりはない


 山本 芳久氏の「自己啓発本を読んでも自己肯定感が高まらない根本原因」 という記事を読んだ
13世紀トマス・アクィナスによって著された「神学大全」を基にしてQ&A式で論じている

-ここ十年くらい、「自己肯定感」という言葉が使われることがとても増えました。本屋に行くと、そういう感じのタイトルの本があふれていますし、ネットでもこの言葉が使われることが多いですね。

ちょっと気にかかるのは、それらの自己肯定感をテーマにしている本が、文字通り「自己」を肯定することを強調していることです。

—それではダメなのですか?

ダメというわけではありませんが、すべての人間は、この世界と切り離せない関係のなかで生きています。そうである以上、自己を肯定するということは、自己と切り離せないこの世界をも同時に肯定するということになるはずです。
「この世界にはろくなものが存在しないし、ろくな出来事も起こらないし、周りも虫の好かない人ばかりだけども、自分のことだけはとても好きだ」というようなことはありえないと思うのです。

—でも、自己啓発本には、「この世界はあなたの足を引っ張る連中ばかりだから、人に嫌われることを恐れずに、自分の信じる道を突き進もう」と背中を押してくれる本もあります。

もちろん、そのような本に勇気をもらって、幸せに生きていけるならば、それでもいいのかもしれません。ですが、なんだか、そのようなやり方は、少し窮屈でかたくなな感じがしますね。
トマスの哲学の特徴は、単に「自己」を肯定するだけでなく、いっけん憎しみや悲しみに満ちているように見えるこの世界のなかにも、肯定できる要素が埋もれていることに眼を開かせてくれるところにあります。人間の感情には「根源的な肯定性」がある

—自己肯定感を扱った本の中には、ネガティブなことを考えてしまう「心のクセ」を矯正しようとするものも多いです。そのためのワークシートが付いている本もあります。

ネガティブなことを考えない訓練をするのも、一つの方法かもしれません。しかし、心に自然に浮かんできてしまう感情を、意志の力によって遮断するということは本当に可能なのでしょうか。もし可能だとしても、それは自らの自然な感情を否定することですから、結局それでは自己肯定感は得られないのではないかと思います。

—では、どうすればいいのですか。

心に自然に浮かんでくるネガティブな感情を否定せず、むしろそれをありのままに深く受け止めることが、最初の一歩として大事です。トマスの「感情論」によれば、すべての感情には人間をおのずと肯定的な方向へと向かわせる力が潜んでいるからです。
たとえば「喜び」を感じたときは、それを抑制せず、笑ったり、「喜び」を他者と共有したりなど自然な反応をすると、ますます喜びが増幅されます。

—ポジティブな感情ならそれで良いかもしれませんが、ネガティブな感情をありのまま受け止めてはダメなのでは?

一概にそうとは言えないというのがトマスの考え方です。たとえば、「悲しみ」を感じたときは、それを無理に否定せずありのままに受け止めて、思いっきり泣いたり嘆いたりした方が、むしろ悲しみが和らぎますよね。
つまり、ポジティブな感情である「喜び」の場合にも、ネガティブな感情である「悲しみ」の場合にも、生まれてくる感情をありのままに受け止めて自然な反応をすると、おのずと心がより肯定的な方向に向かうようになっているのです。トマスの「感情論」の特徴は、人間の自然な感情を否定せず、むしろそこに「根源的な肯定性」を見いだしているところにあるのです。(後略)

ここまで読んでいると 自分だけ啓発されても「我」だけが突出してしまい 他者との親和性や共同的な幸福はそこからは生まれないと思った PSI同様 自分をポジティブを感じれはポジティブ ネガティブと感じればネガティブ とどのつまり「まず思い込み 自分を洗脳している」だけじゃねえの?と思ってしまう

その不自然さが私には気持ちが悪い アクィナスの言う「根源的な肯定性」なんて大仰な概念でなく その日呼吸をしていたら「生きてるなぁ」と感じるだけでもいいような気がする

芥川龍之介が唾棄するほど嫌った言葉「親和性」
それよりは PSIや自己啓発本の方が幾分マシかもしれない

親和性とは 誰かと食事に行った時その相手が「とても美味しい」と言えば 自分も口にして余計に美味く感じるようなもの そこには親和性共同性以前に「群体としての人間」があるような気がし
ヒト1人が37兆個の細胞で出来ていて そして原初生物は単細胞であったことを思い出せば 本当の自分は「I」ではなく「We」なのかもしれないし 自分自身がWeであるなら人類も生物全ても大きなWeであるのかもしれない

ボンヤリ そんなことを考えている…

 

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