kei 「蜘蛛の糸Ⅱ」

2023年3月退職 後の生と死を「絵と言葉」で考えたい…4月からは「画家」か?「肩書を持たないただの人間」として生活していこうと考えています。

「アッサジ」

「同類の肉を食べると遺伝子異常がが起こる」とか 特に脳は「クールー病」に罹患しやすくなり 脳がスポンジのようになり死ぬ危険性がある

「毎日飢えに苦しんでいたネアンデルタール人でさえ 共食いをしなかった」とか

ま・・・そうだろうかも


手塚治虫の「ブッダ」を読んだ

彼が描く線には以前のような美しさは消え 自己の死を意識したという点で

ライフワークの一つであったのだと思う

・・・で 読後の私の感想だが  「あんまし・・・」である。

ブッダが描けていない=その境地まで達していない」 これが私の結論

ブッダが悟りを開いた後 歳を重ねていくごとに 弟子・信者は増えて大きくなっていく

その弟子の最初の5人(五比丘の一人)の一人が阿説示=「アッサジ」だが

歴史で語られるアッサジと 手塚が描いたアッサジは別人と呼べるほど違う

手塚か描いたアッサジは 子どもで鼻たれ 頭にバッテンの絆創膏があり 一見「マヌケ」

ある時から予知能力を得て ブッダを助ける

しかし ブッダよりも先に死ぬ運命であることも アッサジは知っている

それは 腹を空かせているオオカミの母子に自分を食べさせるためだ

手塚はブッダに「あーっ」っと声を上げさせているが

本物のブッダなら このようにはならないだろう なにせ悟ってるんだから

「私が食べられようか?」と尋ねた気がする

しかしアッサジは「あんたにはあんたの役目がある」と断ったことだろうと思う


ともかくも このシーンが強烈過ぎた。

キャラとしては「オオカミに食われた アッサジに逆に食われてしまい」それ以降の話はパッとしなくなる

察するところ このアッサジの場面で 手塚は立ち止まってしまい動けなくなったのではないか…

なので 作品もその出来だと思われ 手塚治虫という一人の作家の限界だったかもしれない

 

私もアッサジのようなことはできはしない


でも その真意は分かる


人間の原罪は「知恵の実」を食べたことなんかじゃない


「他の生き物を食らわずしてその生を維持できないこと」だ


それをいくら嘆いたとして 菜食主義者になろうが 土の中にこもり 断食して即身成仏しようが


「人間」という生き物としての現実は変わりはしない


そしてまた 明日から 自分が人間であるという理由によって「人間」の相手をせねばなるまい
(「それはこっちもおなじだっつーの!」 という誰かの声が聞こえるが・・・)

 

ただ 人間だけのために生きたいとは思わない

 

kei