『路傍の石』という1937年 山本有三によって書かれた小説がある 主人公は「吾一」
才を持ちながらも 高等教育を受けられず 小学校卒業後 新聞会社に勤め 字を覚え立身出世していく物語だが 作者の意志によって未完に終わったらしい …というのも作品を読んでいない ただ主人公吾一が語る言葉に「『吾一』というのはね、我はひとりなり、我はこの世にひとりしかいないという意味だ。たった一度しかない人生をほんとうに生かさなかったら、人間、生まれてきたかいがないじゃないか」というのがある
NISAだ 老後の資金だとか 年金だとか…身近なこととして記事を読むことがあるが 私自身の中で「強い反発心」が胸の深い部分で起こっているのがわかる 30年以上共に暮らした家人のことを考えると反発心は弱くなるのも確かだが…
やはり 「本末転倒」なのだ フロイトが何を言おうと「人は生命を維持するために生きているのじゃない 自分を生(活)かすために人生がある」と思いたい
山本のこの著作の題名は「路傍の石」即ち「道端に転がっている石」だ
それは吾一=路傍の石ともいえ 「私」という自我がない限り 人はどんなモノでもいい
近頃 時々ここでも書いているが「自分は自分という体を借りているだけ」という感覚が絡みついていて なかなか外れない
「持ち家と借家 老後は持ち家がいい」とか載っている記事が結構あるが 自分自身が「借家」なのじゃないかと思っているわけだ
誰から借りたのか? そんなことはどうでもいい
「自分が自分の持ち主である」というのは「自惚れ」引いては「幻想」かも知れぬ と今は思う 持っているにせよ 借りているにせよ 大同小異どころか 本質の部分は変わらないと思う
私は私の王ではない
私は私の全てではない
「私」という意識=自我が本当にあるのかどうかもわからない
人が動物の一種であると考えるのなら「自我がある」と誤った幻想を持ってしまったのが人間
私は空でも 海でも 石でも Youでも Weでもいい
ただし ただ一つしかない
同じ石が一つとしてないように
どうであっても 私は一つしかいない
kei