kei 「蜘蛛の糸Ⅱ」

2023年3月退職 後の生と死を「絵と言葉」で考えたい…4月からは「画家」か?「肩書を持たないただの人間」として生活していこうと考えています。

「シミュレーションという病」

現在 私が頭を垂れて話を聞く人の一人が「養老孟子」氏です

86歳を迎え 言葉はさらに「切れる言葉」に変わっているのが分かります

「切れる」とは研ぎ澄まされたカミソリというのとは違い

「銘刀」とも違う気がします 「モソッとした山刀なのにスパッと切れる」感じでしょうか

私の言葉など氏の言葉と比較しようもないので 記事をそのまま載せます

養老孟司86歳「死をタブー視して覆い隠し、人工物だらけの世界を拡張させている現代社会。不安を排除ではなく、同居することを覚えていくのが成熟」 虫と人を見つめ続けて。振り返ると僕はお釈迦様の掌の上にいた<後編>|教養|婦人公論.jp (fujinkoron.jp)

科学技術の進歩と共に「死をタブー視していく」日本 「死」のシミュレーションだけは避けて通る日本

催し物をするにしろ 発表するにしろ 日本人はシミュレーションをしないと安心できない

ニュース記事は数多「いくら持っていれば安心して暮らせるか という金銭シミュレーション」は枚挙に暇がなく

その物量を冷静に考えれば「これこそが病気」なのだと 氏に改めて教えて貰いました

 

シミュレーション社会は病んでおり 病んでいるからこそシミュレーションが必須  バカバカしい話です

 

あと「不安や矛盾を受け入れるのが(人間としての)成熟(である)」という言葉にも 心を動かされました 「試考で乗り切る」のではなく「不安と矛盾を抱え込んでいてこそ当たり前」と言いたいのだと思います

 

不安や社会や職場の矛盾を「あ~だ。こ~だ。」と言っている間に 自然災害が襲ってきたら? 


何が肝要か人は見抜けるでしょうか…

生きることで「生」をシミュレートしているのでしょうか…(笑)

「高校生」という若者たちは 授業中「ゲーム」というシミュレーションをやり続けながら生きるという 逆様をやっています

kei